西暦5世紀ころの任那(伽耶)とは秦氏(D2、斉系弥生人と同族)が一時建国した国と考える。任那国と目される朝鮮半島南東部あたりをクローズアップしてみた。
さらに遡って弥生人が入植して、すでに倭国領になっていたと思われるが、水田稲作は遡らず、当該時代かららしい(参考)。
都市計画や田園の地割は一度決まり、建設・維持されると以降、変化しない!すなわち、渡来人の秦氏の故郷である中国の山東半島(斉国があった)あたりから洛陽(秦の始皇帝の首都)にあった条里制地割や条坊制都市を目当てに探して見た。
釜山あたり①の田園は条里制地割と言って良かろう。多分ここらあたりは金官の候補ですね!注目すべきは、参考②の都市と③の田園を見て欲しい。綺麗な条坊制や条里制地割を見出した。②は安羅の候補か!③は卒麻か漆吐が候補か?⑨に追加した、小伽耶(現在の固城)も綺麗な条里制地割を持っていた。
その他の地域には百済国と思しきあたりを除き目ぼしい土地はなかった。参考に南西部の農地はグチャグチャの土地でした。
参考
朝鮮半島南東部の釜山付近
1 釜山広域市の田園地帯、 2 条坊制町割の都市 3 田園地帯
① 釜山広域市の田園地帯
③ 田園地帯
⑤ 古代、任那があった頃の地図
途中に異民族がいてスムーズには通過出来ない。実際には現地で集住して建国・滅亡しながら、現在の釜山あたりに集合すると考えた方が現実的である。
秦氏の場合は辰韓を建国し、その後、任那に集合した。そして新羅に吸収される前後から渡来を開始、百済にとどまった秦氏は百済人として渡来して渡来が完了したと考えられる。
⑦ 秦氏の渡来(参考)
⑧ 百済国あたりと目されるところも、綺麗ではないが条里制地割の水田があった(参考)。
⑨ 小伽耶(古嗟)、固城
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10 任那の日本府(参考)