宗像と長門は一心同体で宗像大宮司の子孫は萩にいる! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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宗像と長門は遅くとも室町時代には一体であった。大内氏の家来となり、以来、毛利氏の家来となり、今でも萩に子孫が在住している模様です。

具体的には江戸時代、阿川毛利家の下に村上水軍の末裔と宗像海人族が響灘から玄海灘、対馬辺りまで支配して朝鮮半島との交易を行ない、幕末の夷狄打ち払いにも活躍した。


参考

① 宗像と長門の間柄(参考):

室町時代には、宗像氏は中国地方から北九州にかけて勢力をもった大内氏の家来になり、大内氏から黒川という姓をあたえられました。

1551年(天文20年)に大内義隆が陶晴賢に攻められた時、当時の大宮司宗像氏男が大内義隆とともに自害し、宗像氏の後継ぎをめぐる争いがおこりました。争いに勝った黒川鍋寿丸はやがて大宮司宗像氏貞となります。

氏貞は、山口の毛利氏と大分の大友氏という2つの戦国大名のあいだにあって、宗像の領地を支配していました。1559年(永禄2年)に、氏貞は大友氏にせめこまれ大島や地島にのがれますが、翌年、毛利氏や宗像の人々の協力を得て、大島を出て宗像の領地をうばい返しています。氏貞が宗像の人々にしたわれていたことがわかります。

氏貞は1586年(天正14年)に42歳でこの世を去ります。氏貞には男子の後継ぎがいなかったので、宗像家は氏貞をもって絶えてしまいます。氏貞の墓は、上八に今もあります。


氏貞の男子塩寿丸が早世していたため、宗像氏には嗣子がなかった。九州平定が成ると、筑前は小早川隆景に与えられた。宗像領は没収となり、一族や家臣らは離散。居城の蔦ケ岳城も秀吉の命で破却された。その後、毛利氏の重臣益田元祥の孫・益田元堯が氏貞の養子とされ、氏貞の娘の1人は小早川隆景の重臣草刈重継に嫁ぎ、重継は宗像氏を称した。また三女は毛利輝元家臣の市川与七郎に嫁いだ(wikiより)。


② 注: 宗像氏の子孫は山口県萩市に現存している模様であり、以下の文書がある(参考)。

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注: 毛利氏は土師氏(秦氏)、大内氏は百済の聖王の末裔であり、ともに渡来人であった。








⑥ 末裔の現在(2020.7.4)

ブログにコメントがあり、女子が嫁入りした草刈氏が称した宗像氏の末裔とは別に、男子の末裔が断絶せずに矢張り萩に存在し、大阪に健在のようで宗像商会をかつてやっていた。

この宗像商会は宗像半之助さんが山口県を出て創業し、釜ノ浦炭鉱(長崎県西彼杵郡松島村)を所有していた。