向津具半島は朝廷の御料であり、油谷湾は宗像・鐘崎の漁師の縄張りであったようだ!
すなわち、宗像海人族の船に乗せられた渡来人達は向津具半島あたりに到着し、内陸の豊田町あたりに一時滞在したと考えられる。
参考
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大浦に残る伝説によると、神功皇后が三韓へ出兵のみぎりに油谷湾を根拠地とし、今の大浦後方の丘にあたる王羽根を仮御所にしたという。そのとき、麓に住む海女が鮑を献上したところ、それを賞味された皇后は大変喜ばれて、「以後この浦を王浦とせよ」 と言われた。それを聞いた浦人は大変かしこまり、恐れ多いことと思い、字を変じて「大浦」 と呼んだというのが大浦の地名のいわれであり、この名が後世に伝わり現在に至ったというのである。
別の話では、出雲日御崎・長門川尻・筑前鐘﨑で大火を焚いて往復の航海目印にしたとも言われている。後に大浦の海女が歴史に登場してくるのは源平の戦になってからである。もともと向津具は朝廷の御料であり、海産貢納物として雑鮑・薄鮑・乾魚・若布・かじめを貢納していた。そうした関係があったからか、11世紀に平家が下関壇ノ浦で滅亡した際に、大浦の海女が海底で沈んだ宝剣の探索に動員されている。しかし宝剣を見つけだすことはできなかった。
大内時代になり、大内水軍の将後根壱岐が向津具の領主であった頃、向津具は明との貿易で大浦の干し鮑や煎海鼠が大浦の主要輸出物となっていた。そこで増産のために人出が求められるようになり、正長元年(1430) には鐘﨑より多くの海女が移住してくるようになった。大内が滅亡して毛利の支配下に変わると、海賊停止令によって瀬戸内を追われた村上武吉が、天正15年に毛利輝元より大津郡と南防州に一万石の領地を受領し油谷湾周辺を居住地とした。やがて文禄慶長の役が始まると、軍役の海産物増産のために再び海女が必要になり、鐘﨑より鐘﨑又兵衛に率いられた海女たちが移住してきた。
壱岐から油谷湾までの渡海ルートは宗像海人族の管轄か!
粟野以北は宗像海人族の縄張りか!すなわち、粟野より南は海岸防衛の住吉系で、粟野以北は渡海を助ける宗像系が占めていた!
向津具半島には王屋敷遺跡がある!
内陸の豊田町の華山は神代から霊峰で歴代天皇が祈願された。また、白村江の戦いの敗戦(663年)後の650~655年頃までに、すでに豊田郷があり、班田収授による条里制の田地があり、渡来人たちを受け入れていた(参考)。