対馬藩主宗氏について | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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宗氏の旧名の惟宗氏(これむねうじ)は、平安時代に始まる氏族で秦氏の子孫と言う(wikiより)、すなわち毛利氏と同族の渡来人であり、響灘から山陰沿岸を渡海した渡来人で、対馬の現地民と同族であった(参考)宗氏が安徳天皇の子孫を自称したのは、平氏側に属して源平合戦に参戦した宗像海人族を味方にする方便でもあろう(参考)

ところで宗像大宮司の子孫は山口県萩市におり(参考)。また第14代藩主宗義章の妻が長州藩主毛利家の娘(万寿、慈芳院)、親類であった。安徳天皇の陵墓については下関市内には2箇所(阿弥陀寺、豊田町王居止、参考)もある。

維新後華族となり、明治17年には伯爵だに叙せられた。本来の叙爵基準では、現米(藩本来の米の収入)5万石以下であった対馬藩は子爵相当となっていたが、対朝鮮外交者としての家格が考慮され伯爵となった(wikiより)。


宗氏の子孫の一家族は山口県下関市に在住し船員として活躍していたが、子供たちは電気通信大学などを卒業して技術者として活躍している模様!


参考

現在の対馬でもっとも多い姓は「阿比留」(あびる)です。本土の人は「あひる」と読んでしまうこの姓のルーツは、平安時代まで遡ることができます。阿比留一族は交易などの実権を握って対馬で大きな勢力を持っていたようですが、鎌倉時代になると大宰府との関係が悪化し、惟宗(これむね)氏によって支配権を奪われます。惟宗氏はやがて宗(そう)氏を名乗り、鎌倉時代から江戸幕末まで600年続く対馬島主・対馬藩主の家系となりました。

伝説では、大宰府の命を受けた惟宗重尚(これむねしげひさ)以下200騎が厳原町豆酘(つつ)に上陸し、阿比留氏と死闘を繰り広げ、美津島町鶏知(けち)で阿比留平太郎国時を討ち取り、上対馬町舟志(しゅうし)で阿比留禅佑坊を敗死させ、対馬の支配者となった、とされています。惟宗重尚は伝説上の人物であり、その武勇伝も後の世に生み出されたもののようですが、宗氏による阿比留氏追討の伝説は対馬では長く信じられてきました。

宗氏は平氏の血をひくと自称しており、また、源平合戦で壇ノ浦に沈んだ安徳帝の子孫であるとも称し、厳原町久根田舎には安徳天皇の参考陵墓があります。宗姓を名乗ることができたのは島主・藩主だけであったため、現在島内に宗姓の人はいません。ちなみに阿比留氏は、上総国安蒜(あびる)庄の出身であるとか、蘇我氏の末裔であると称しており、対馬で最も多い姓となりました(参考)。


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対馬藩主宗義和図書(つしまはんしゅそうよしよりとしょ) 朝鮮時代・19世紀、朝鮮国から対馬藩主に与えられた印章「図書(としょ)」です。朝鮮への外交文書には、この「図書」を捺(お)さなければなりませんでした。第14代藩主義和のものです。箱ものこっていました(参考)。