「地名と所領」 P114 ~ 123 より(参考)
大田
旧地名は杉原で、のちに開作ができて改名した。
宇賀(上・下畑)
上・下畑は岳ノ畑上下とある。荒津(宇賀本郷) の五本松に六万坊の鎮守 → 参考
旧地名は杉原で、のちに開作ができて改名した。
宇賀(上・下畑)
上・下畑は岳ノ畑上下とある。荒津(宇賀本郷) の五本松に六万坊の鎮守 → 参考
滝部村
応永9年(1402)、公文に師氏がいた。 師氏は阿武郡牛牧庄にもある。在地の支配者は師氏である。→ 赤崎社
中原村
中ノ原
矢玉
応徳元年(1084)の記録に、大物浦と弥玉がある。大物浦というは矢玉の旧名で、海を恐れかしこむところから名付けられたものであろう。永久3年(1115)に滝ノ庄から荒津庄が分かれた中に弥玉があり、正安元年(1299) には酉(とり) の庄弥玉とある。酉の庄が荒津庄の古名であろうか。
矢玉港
神田別府
神田と神田別府が分けられていた。
神田
文明10年(1478)の記録に地名「国衙」 がある。肥中との関係もあって、当時まで国衙(律令制による政庁) に所属する土地があったのであろうか。→ 参考
神田別府
神田と神田別府が分けられていた。
神田
文明10年(1478)の記録に地名「国衙」 がある。肥中との関係もあって、当時まで国衙(律令制による政庁) に所属する土地があったのであろうか。→ 参考
肥中
江戸期の記録では「ひんじゅう」 「びんしゅ」 などと書かれている。海東諸国記では「賓重」 「賓任」 (これは住の字が任となったのであろう)
応仁2年(1468)、奇瑞が現れたというので、「長門州賓重関太守藤原朝臣義長が朝鮮に使を遣わした」 とあり、同書の地図に「賓任浦」 とある。当地は大内盛見が山口の道場門前から肥中の街道を設け、朝鮮貿易を進めるにつれて肥中は重要視され、大内氏の船倉も設置された。毛利氏の代となっても当地は直轄領だった。文禄の役には竜山城付領の元氏の配下が肥中港から渡海した。→ 参考
百済王が欽明天皇の御代(553年)に戦いに敗れ、角島の瀬崎に漂着した。安寿密寺を建て、院主になった。1113年ころ賊火の為、寺は焼失した。それより筑前鐘﨑に移って海女を娶ったという。子孫は西小倉に住み庄屋になった。伊王は伊生と改姓し、明治に至った(福岡県小倉市史)。
宗像・鐘崎や大島の海人は往古より毎年角島に出漁していた。毎年6~7月の2ヶ月を家族同伴で生活した。今も勝安寺に海人の墓がある。
参考