弥生時代以来、玄海灘文化は対馬を経由していなかった? | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

玄海灘文化対馬を飛ばして朝鮮半島、壱岐、北九州中央部に普及し、対馬は響灘文化で本州につながる。

{F8FAAA96-6BFF-4FC5-951E-D522D5EDBEA9:01}

対馬は石棺墓制の響灘文化であり、本州と直接交流している。対馬の主な産業として響灘を渡る大和政権に協力したと考えられる。北九州中央部、壱岐、朝鮮半島の甕棺墓制の玄海灘文化と相容れない!

北九州への渡海は、対馬海流の流れを考慮すると中国大陸や朝鮮半島南部から壱岐を経由、または直接、北九州中央部の奴国あたりに到達する方が合理的である。

対馬と壱岐を経由する魏志倭人伝ルートは対馬海流の流れに逆行する場合があり、渡海が困難になる場合がある。魏志倭人伝では対馬・壱岐を通過しているが、中国大陸から日本への来日ルートには対馬に立ち寄らない方が合理的である。江戸時代の朝鮮通信使は来日と帰国を同じルートにして、釜山、対馬、壱岐、相島、赤間ヶ関、、、のルートであった。この場合でも、来日ルートについては本来なら壱岐、相島にも立ち寄る必要は無く、対馬から赤間ヶ関に直行する方が合理的である。

壱岐には弥生時代以来、渡来人は立ち寄っていなく、縄文人しかいなかった(参考)!すなわち、中国大陸から北九州(玄海灘文化圏)への渡来は直接に北九州に上陸した。中国大陸や朝鮮半島南部から本州への渡来は対馬から直接に本州(響灘沿岸)に上陸する。壱岐を経由する交流は朝鮮半島と北九州の交易くらいであったと推測する。


参考

① 北九州の甕棺墓制

最初に、弥生時代の北部九州を象徴する墓制である甕棺を取り上げます。甕棺は、弥生時代の初期に、北部と中部の九州で発生します。中期になると、北部九州に密集してきます。しかし、邪馬台国の時代には、消滅していたようで、魏志倭人伝には、この独特な墓制度は登場していません。甕棺の中からは、大量の中国製の鏡が出土することがあります。

{85407B7D-FC45-4CAC-9F34-D98E002BFDD0:01}

甕(カメ)は各地で見られる土器であるが、棺にするために大型化したものを甕棺という。甕棺(かめかん)は、弥生時代の北九州を中心に分布するこの地方特有の墓制である。甕棺は、消えてなくなることがなく、大型なので発見されやすいという特徴をもつ。北九州の弥生時代の遺跡の発掘が多いのは、この甕棺の存在が大きいといえるかもしれない。甕棺からは、数十枚もの中国製の銅鏡が出土することもある(参考)。

{32EF33B0-6E7B-47D4-B025-8C63BAD48B50:01}


②-1 壱岐の甕棺墓

弥生時代の墓制として甕棺墓と箱式石棺墓の両方が混雑している。

{50EF91A6-1BE1-47D6-82D9-7B74B20BAF7F:01}

弥生時代の北部九州一帯では、2個の大きな土器の口を合わせたカプセルのような棺をつかって埋葬する「甕棺墓」と呼ばれる墓制がさかんに営まれる。原の辻遺跡でも、この甕棺墓がみつかっている。このほかにも、地面に穴を掘っただけの土壙墓や、平たい石を箱のように組み合わせた箱式石棺墓も見られる(参考)。

原の辻遺跡は、弥生時代前期後葉(紀元前三世紀後半頃)に集落が形成され、弥生時代中期前半(紀元前二世紀前半頃)に環濠をもつ大集落として成立する。中国・朝鮮半島、日本列島各地からもたらされた品々は、「イキ国」の国邑として対外交渉・交易の拠点であったことを示しているが、古墳時代前期の四世紀中頃に交易の基盤を失って解体・消滅する(参考)。

②-2 壱岐国一の宮 天手長男神社は北九州系の平地に鎮座する神社の形式


③ 朝鮮半島の甕棺墓制

無文土器時代後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。日本の弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている(wikiより)。


④-1  塔の首遺跡 とうのくびいせき、対馬

長崎県対馬市上対馬町にある墳墓群。対馬北端、比田勝(ひたかつ)港の北にある上古里川の西に位置する稜線上に所在する。1971年(昭和46)の発掘調査で4基の箱式石棺を発見。朝鮮半島の遺物と弥生時代の遺物がともに出土し、年代の比較や交通の実態を示す遺跡として、1977年(昭和52)に国の史跡に指定された。第1号石棺はすでに大部分が消滅していたが、第2号石棺は稜線と直角に営まれた箱式石棺で、板石を用い内法の長さ1.5m、北の頭部幅0.45m、南の脚部幅0.3m。棺の北側壁の脚もとに沿って土器が副葬され、別に1点の銅釧(どうくしろ)やガラス玉類が発見された。第3号石棺は砂岩の板石材を多用し、敷石も配している。石棺は内法の長さ1.75m、東の頭部幅0.4m、西の脚部幅0.35mで、巨大な扁平板石3枚で天井とし、棺内には両側壁に銅釧7(左腕4、右腕3)のほか、銅鉾が分けて置かれ、別に頭部に土器1、多数のガラス製小玉、管玉(くだたま)を副葬。第4号石棺は、最高所にある箱式石棺で、稜線に直交し、内法の長さ1.95m、幅0.45mで棺内中央には鏡1面、鉄斧(てっぷ)1点、ガラス製小玉、土器などが副葬されていた。比田勝港から徒歩約5分(コトバンクより)。

{5F00ED4D-C0B1-4A0C-866A-6A08449796CC:01}

④-2 古墳時代初期に築かれた出居塚古墳は前方後円墳で、有茎柳葉式銅鏃、鉄剣(部分)、管玉等が出土している。前方後円墳は、3世紀代にヤマトで生まれた古墳形態であり、出土した有茎柳葉式銅鏃は古式畿内型古墳の典型的出土品であることから、この時代の対馬の首長はヤマト王権と深く結びつき、その強い影響下にあったことを示している。

④-3 対馬国一の宮、海神神社は海人族安曇氏の神社で、渡来人秦氏の渡来をたすけた!宗像氏より早く安曇氏の方が早く対馬で漁撈に従事していた!宗像海人族の対馬での正式な漁業権は最近700年前に獲得した。


⑤ 日本の支石墓(しせきぼ)は、数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せる碁盤式の墓である。日本では、縄文時代晩期の九州北西地域に出現する。当時、朝鮮半島南西部で支石墓が最盛期を迎えており、朝鮮半島からの強い影響があったものと考えられている。主に松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広まった。支石墓直下の埋葬方式としては、土壙墓・甕棺墓・石棺墓など様々な形態がとられていた。(wikiより)。朝鮮半島では、北方が石棺・支石墓、南方が甕棺・支石墓のようである(参考)。


⑥ 西北九州文化は石棺墓制で響灘文化に近いが、方言では玄海灘文化に近い。


⑦ 魏志倭人伝での渡海ルート
 
{B8624594-5C29-477A-B343-9188596596E5:01}
往復ともに壱岐・対馬を通過する不合理ルート


⑧ 幕末まで本州と朝鮮半島との交流に壱岐に寄港していなかった!しかし、朝鮮通信使は不合理にも壱岐に寄港している。

{FDA5FC84-33A3-4267-8379-746061CAD272:01}
朝鮮通信使の往復ルート(藍島は誤り、相島に寄港)


⑨ 遣新羅使の出国ルート(朝鮮半島行き)は壱岐・対馬を経由しているが、遣唐使について初めの数回を除き対馬に寄港していないルート図が多い。

{8BA27BF2-2E55-4B7E-89B1-F5152D1A23D6:01}
遣新羅使ルート(往路)

{3461B807-895A-4E31-B369-D0EDE96325B7:01}
往復とも対馬に寄港していない

{7E050225-3216-46D1-94F8-6FAA54C9966A:01}
対馬に寄港していない

{E5D7E228-93AA-40FD-80F6-BA23B84CD3AA:01}
対馬に寄港していない

{688A740E-77A4-47CB-B527-C3A255EE765D:01}わざわざ対馬に寄港(確かに初期の遣唐使は立ち寄っていたと言う説もある)


10 元寇

文永の役では対馬・壱岐の渡海ルートで来日、弘安の役では対馬海峡の知識が増えて、帰国ルートでは朝鮮半島に直行している。

{DB2E6258-4458-492C-BB6F-B7E6DFA8CE05:01}

本州につながる直行ルートは対外的には軍事機密であり、慎重に扱われた様だ!中国や朝鮮半島の国家に漏れる恐れのある記紀など文献には意識的に記載しなかった!そのお陰で、元寇での侵入・撤退ルートは玄海灘周辺に限られた!


11 日宋貿易

平安時代後期から鎌倉時代の日宋貿易では、壱岐・対馬を経由していない(参考)。

{69326D7C-8B96-4FB7-9142-832765BD7A44:01}


12 五島列島(西北九州)は壱岐・対馬を経由せずに、最も早く縄文時代に大陸から牛を輸入していた。

長崎県教育委員会編「考古学遺跡一覧」によると、五島における縄文遺跡は、大陸に面した県下離島の中では一番多いが、弥生・古墳時代になるとその数は減少している。(略)五島の地形は米麦の耕作には適さなかったので、農耕を中心とした前記の弥生・古墳時代遺跡数にみるように五島における同時代の遺跡数が減少しているのであろう。
   五島・・・(縄文)78 (弥生)34 (古墳) 3
   壱岐・・・(縄文) 1 (弥生)47 (古墳)89
   対馬・・・(縄文) 7 (弥生)65 (古墳) 3
(略)

次に大崎熊雄先生著の「長崎県の和牛」によると「福江市の大浜貝塚より箱式石棺風のものに人間の遺体と共に牛の遺骸が葬られており、死者の祭りに牛が一緒にいたという事は日本最古のものであろうと九州大学の鏡山教授、同志社大学酒詰教授が折紙をつけられた」と記しておられる。

牛馬が大陸より我が国に渡ってきたのは縄文時代からという。その遺跡が福江島にある事は之も大陸文化と五島との農耕・食文化の交流を物語る資料とかんがえてよいものである。




14 第7回までは壱岐・対馬経由との定説に対し、第4回から東シナ海を横切るルートになると言う説が以下の通りある(参考)。しかし、はじめから壱岐・対馬を経由していない航海術を現地の漁師は知っていた!

遣唐使船の航路は、従来、舒明2年(630)に最初の使節を送ってから第7回までは、壱岐、対馬を経て朝鮮半島西岸を北上して山東半島に到る、遅くとも弥生時代には用いられていた航路(北路)を利用し、大宝2年(702)の第8回から天平勝宝4年(752)の12回の間は、九州西岸沿いに南西諸島まで南下し、東シナ海を一気に北上して中国大陸に到る南島路が利用したとされてきました。しかし上田氏の見解に従うと、南西諸島への使船の来着は、荒天などが原因で本来の航路を外れて漂着したケースが多く、本来の航路として用いられたものではないようです。

それについて上田氏が注目したのは、斉明天皇5年(659)に日本を発した第4回遣唐使船の航路で、その時の使船2隻は、途中までは朝鮮半島に渡る従来の北路を取っていますが、その後、半島南西の百済南畔の島から大海(すなわち東シナ海)に出て、僅か3日で華中の杭州湾付近に到達しています。このルートは出発地こそ朝鮮半島ですが、東シナ海を横断する点でその後の南路(大洋路)と基本的に同じ航路です。おそらくは百済や新羅など朝鮮半島の船乗りが、この航路の情報を伝えたのでしょう。

さらに大宝2年(702)筑紫(博多湾)を出発した第7回遣唐使は、詳細な航路の記述がないため、これまで南島路を取ったとされてきましたが、到着地(楚州塩城県)から考えると、南路を本格的に利用した始めてのケースだと考えられます。

その後の遣唐使船は、博多湾から平戸、五島を経て、東シナ海を横断して華中に至る南路を利用しますが、繰り返された遣使の中で、航路各所の潮流、風向、沈礁などの位置、水の確保が容易で安全な停泊地、現在地の目印になる地形なども知識も蓄積されたと思われ、また泊地における宿営や食料、薪等の補充などのインフラも確立されていったと思われます。また天平勝宝4年(752)に出発した第10回遣唐使の第4船の舵取りとして、肥前国松浦郡出身の川部酒麻呂が参加していた事が『続日本記』に記されていることから、松浦地方の住民からも海の知識を活かし、航海に参加する者がいたことが分かります。