下関市立考古博物館の稗田地蔵堂遺跡の蓋弓帽と蓮菰紋銘帯鏡について、下関の古代、東鯷国(イツツヒコ王国)の王が漢の出先、朝鮮半島の楽浪郡に朝貢したときのものと主張したのに対し、学芸員さん曰く、「鏡は隣の九州(倭国)から多量に出土しており、隣からもらったのでは!、蓋弓帽についてはたった一つではなんとも!」との回答だった!
確かに、当時、倭国を代表していた奴国は漢に朝貢し、多量の鏡と漢倭奴国王の金印をもらっているが、呉の太白の末裔には馬車の先につける蓋弓帽には興味はなく、一本も出土していない!
これに対し、下関の東鯷国王は元々、斉、秦の系統の騎馬民族の末裔であり、例えば既に滅びた秦の始皇帝の馬車などについた蓋弓帽は最高の憧れの印であった!漢の王が下賜することは無いでしょうが、秦の始皇帝につながる品であり、隣りの奴国王から絶対貰うことはない!
蓋弓帽、日本で絶対に唯一
蓮弧紋銘帯鏡、隣りの奴国には沢山ある
参考
古代日本に伝わった中国文化は、北と南の地域でその性格を大きく異にする。広大な中国を南北の地域に二分するという事はふるくから行われていた。
その事を具体的に指摘した文献は、前2世紀 漢の武帝の建元2年(前139)に成立した一種の思想百科全書『淮南子(えなんじ)』に見える。
「(北方ノ)胡人ハ馬二便(タクミ)ニシテ、(南方ノ)越人ハ船二便(タクミ)ナリ」
注: 越人は、「越人」も「呉人」も、どちらも「百越人」と呼ばれ長江文明の稲作水稲文明を日本にもたらした弥生人。
注意:
漁労文化 魚や海産物をとる文化で、これが水田稲作農耕と一緒になって米と魚を主食とする文化をつくる。この文化は、主として中国の南方で発達し、海原や海原にそそぐ河川の流域を主要な舞台として大小の船や舟を用いるので→【「南方系『船』の文化」】と呼ばれる。
→ 何でも自給自足する文化であり、日本列島に渡来したあとは、九州(呉系)の銅剣、近畿(越系)の銅鐸文化となる。広大な平野を開墾して稲作し、タンパク源は自分でとった魚、鶏などの獣肉を食べていた(参考)。
それに対して、北の方の中国の文化、シルクロードから蒙古や華北の岳麓草原砂漠が主要な舞台。牧畜が盛んで農業は麦作が中心。従って、パンと肉が主食。「南方系『船』の文化」に対してこちらを→【「北方系『馬』の文化」】という。
→ 日本に渡来する前、山東半島あたりの斉人は稲作を習得したが、漁撈については海人族と共同することを選んだ。日本列島に渡来してから、稲作に余り向かない山陰海岸に入植し、山地に水田を開墾し、魚介類と米類を海人族と交換した!のちに秦氏が渡来するが、このころ牛馬をやっと輸入して開墾がスピードアップした!(参考)
⑤ 稗田地蔵堂遺跡はイツツヒコ王の墓所(参考)