稗田地蔵堂遺跡、イツツヒコ王の墓所 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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イツツヒコ王(東鯷国、穴門国の王)は、ここ下関市の稗田地区に埋葬された。この地域は綾羅木川流域の稲作水田や綾羅木郷遺跡の古墳群から離れてポツンと寂しい場所である。

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蓋弓帽出土地、下関市稗田地蔵堂遺跡

ところが、現地に行ったところ、その場所こそ王に相応しい場所であった。すなわち、南に古代の幡生湾があり、やはり広大な水田地帯であった。

この古代の幡生湾に突き出た小高い丘に生野(イクノ)神社がある。神社自体は10世紀の創建であるが、名前の「生(イク)」が気になった。実は、綾羅木川の水田を耕す農家の地区、伊倉(イクラ)の氏神に豊神社があるが、最も古くからある格式の高い神社の意久(伊久、イク)神社が相殿にある。

すなわち、イク(生、育)とは当然、生育する意味であろうから、イツツヒコ王は二つの地域の育成、発展を願って、この地に埋葬されたのであろうと想像した。

イツツヒコ王より後代の古墳時代の記憶であろうが、ここ稗田に秦屋敷があったと言う!位置的に重要な地点であることが理解できる。


参考

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1 稗田地蔵堂遺跡、2 豊神社(意久神社)、3 生野神社

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遺跡分布、中央が当該遺跡、生野神社の南の武久川流域にも弥生条里遺跡


① 意久神社(参考)、現、豊神社、下関市大字伊倉

現在の豊神社は伊倉八幡宮、稗田八幡宮、熊野神社が合祀されたものだが、この豊神社に「意久神社」という相殿がある。 この意久神社は防長地名淵鑑によると三代実録 に「貞観15年(873) 12月15日丙午、長門国意久神従五位下を授ぐ」と記されているとのことで、さらに遡ることができる由緒ある古社である可能性がある。ちなみに、伊倉地区は縄文時代以来続き、延行条里遺跡のような由緒ある水田地帯を耕す農家が集まる場所で、信仰される神社は相当古い時代(神功皇后が滞在される前)から有ったと思われる。


② 生野神社(参考)、下関市幡生宮の下町16番18号

ここ幡生の地は神功皇后や豊臣秀吉の出帆伝説がある通り、響灘の良港であった。

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幡生古代地図、縄文海進時代は広大な幡生湾が、弥生時代には条里制地割の水田があった。


③ 古代幡生湾をさかのぼる(東方に向う)と住吉神社に突き当たる。


④ イツツヒコ王の宝、蓋弓帽(参考)