江戸時代前後までの塩の道(川船、陸路)を参照した。驚くべきは西日本の中国山地を南北に越える塩の道の密度の濃さである。これで古代の道を推定することには若干無理があることは承知で見て欲しい。これに対し北部九州の塩の道が少なさが気になる。
すなわち、実はつい最近まで北部九州は自給自足の農業経済で、沿岸の漁業地域との交流が少ないこと示唆している。それに対し、中国山地は沿岸の漁業地域と密接につながった一体経済となっている。
奈良時代の北部九州沿岸の製塩遺跡の出土密度は高くない。博多湾の海の中道遺跡程度らしい。やはり大和付近が群を抜いている。
現代の塩消費そのものは北部九州も他県も違わない。このあたりは古代も違わないとすると、北部九州地域では塩の入手はどうしていたのか?志賀島近くの海の中道の製塩施設で一手に大量生産していたのであろうか?
こんなに明白な差があるとは驚きである。塩の安全保障を考えると、製塩地、塩の道共に複数用意すべきである。もしも、弥生時代の北部九州の場合も海の中道の製塩施設の一ヶ所のみであったとしたら、この施設を操業停止しただけで弥生時代の奴国あたりは干上がってしまう!
弥生時代、倭国を代表して漢に朝貢していた奴国や面土国が簡単に滅びた原因は、塩の供給地が一ヶ所であった為としたら、あの巨大銅剣・鉄剣・漢鏡文化圏は何だったのか首を傾げたくなる?海人族との交流を密にしなかった結果か!
参考
赤丸は古代製塩遺跡
青ベルトは古代製塩遺跡の集中地域
青ベルトは古代製塩遺跡の集中地域
③ 都道府県別の塩消費
④ 福岡県と塩(参考)
福岡県では古くから製塩が盛んであり、海の中道遺跡からは8世紀から9世紀にかけての製塩土器(玄界灘式製塩土器)が出土している。703年(大宝3年)には大宰府から観世音寺に『焼塩山二処』を寄進した、との記録がある。「焼塩山」とは、海水を煮詰めて塩をつくるための燃料として、樹木を伐採するための山である。(平野邦雄、飯田久雄『福岡県の歴史』)
近代においては、周防灘に面した地域では広大な干潟を干拓造成した塩田開発が行われ、九州有数の製塩地帯となり、1911年(明治44年)には県内の生産高の70%を占めるまでになった。この地域の周防灘の主な塩田は「苅田」と「小波瀬」である。また玄界灘に面した地域ではリアス式海岸の干潟を干拓造成した小規模の塩田がほとんどであった。この地域の主な塩田は黒田藩により1741年(寛保元年)に開発された「津屋崎塩田」で、この塩田では全国に先がけ1700年ごろから製塩に石炭が使われるようになったという。
⑤ 塩は国家なり(参考)
⑥ 正倉院の文書によると、筑後国は塩の納税は無かった(参考)