絹の素、蚕種を弓月の君が仲哀天皇に献上した | 日本の歴史と日本人のルーツ

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日本書記の第14代「仲哀ちゅうあい天皇」の第8年に,弓月ゆづき国の巧満こうまん王が,日本の朝廷を公式訪問し、養蚕の蚕の種を献上したとある。現在、4世紀後半に当たると見ているる。応神天皇14年に弓月の君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した(参考)。

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下関市長府に蚕種渡来の地の碑がある。

応神天皇は更に中国の呉から機織りの工人を招聘して、福岡県福津市の地で技術指導を仰いでいる(参考)。

しかし、絹は九州には既に弥生時代から生産されていた。鉄器その他、九州の方が早く渡来していた(
参考)。呉系弥生人が稲作や絹など、燕系弥生人が鉄生産などを九州にもたらした。魏志倭人伝にも養蚕、絹織物について言及されている。

蚕種の遺伝子、養蚕と織物の技術は絶対秘密で簡単には九州の地から本州に持ち込むことが出来なかったので、弓月国の巧満王の蚕種の献上を感謝して日本書紀に記載し、また百済国の弓月の君の窮状に耳を貸したのであろう。

製鉄については、邪馬臺国の時代に福岡博多に製鉄所を作り、その後、対馬に移している(参考)


参考

① 九州の絹遺跡

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② 仲哀天皇の時代(4世紀後半)、中国大陸の西の弓月国にいた秦氏の一派(巧満王)が東に移動して百済国に到着し(建国?)、応神天皇の代(5世紀初め)には百済国の危機が生じていたことがわかる。応神天皇の代に秦氏が渡来し始める兆候である。

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③ 九州王朝説は弥生時代、倭国大乱前までは成り立つ(参考)。