条里制地割の水田は弥生時代から存在し、8世紀ころまで連綿と開発された。
下関市の条里制の遺跡の範囲内にある農業集落(現在も人が住む伊倉遺跡)から縄文時代からの遺物も出土する。すなわち、縄文人と海人族が協力して土地をある程度造成して、中国からの稲作弥生人を誘致したことも考えられる。
参考
① 水田を条里に区切る条里制地割
定説では8世紀としている。
(参考)
大化改新より以降と解釈しているため、太陽を基にした測量技術を6世紀に中国から渡来したとか、半折型はこの時に定められた、と説明している。
しかし、東西南北に正しく整地され、半折型の条里が弥生遺跡として、下関市綾羅木の延行条里遺跡が存在する。やはり、条里制は弥生時代から連綿と開発されたと考えた方が正しい。また、太陽を基にした測量も、3世紀の日本を記述した魏志倭人伝の中の太陽暦にあわせた生活から、その存在がうかがえる。