朝鮮半島南西部の農地は呉・燕系弥生人たちが定着した | 日本の歴史と日本人のルーツ

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古墳時代の百済国の故地あたりの弥生時代を知るため農地の畦の形状に着目してグーグルアースで眺めて見た。基本的に山東半島あたりの条里制地割の水田に近い整然とした農地はなかった(参考)。

また、この辺りは日本での弥生時代に相当する時期の支石墓の分布域であり、中国の山東半島あたりを除いて、西九州から環東シナ海沿岸を経由して、江南あたりまで広がっている。

どうも、無残なほどの農地の区画の乱れは男性Y-DNA遺伝子O2bの分布と一致していそうである。すなわち斉系弥生人や秦氏(D2)が一時的にも定着したり、建国すれば条里制地割の水田の美しい遺構や条坊制都市が残る。しかし、呉系弥生人(O2b)や燕系弥生人(O2b)、漢民族(O3)の定着地は例外がなく汚い。

呉系弥生人や燕系弥生人(O2b)や漢民族(O3)は朝鮮半島に定着したが、斉系弥生人(D2)は山東半島から日本に直行したし、任那、新羅や百済が存在した時代の秦氏(D2)は一人残らず、朝鮮半島から日本に渡来してしまったようだ(参考)。


参考

①-1 下の写真の通り、古墳時代の百済国に相当する地域に着目して、山岳地はもちろん極力避けて平野部を拡大して見た。

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旧百済国あたり

①-2 北部には、下の写真のとおり、条里制地割の水田らしきものが若干あるが(参考)、その他は見るも無残なメチャクチャな田圃が広がっている。古墳時代の百済時代に改修されたり、現代の圃場整備事業がある可能性もあるはずで、これ以上の考察は出来ない。

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北部地域

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拡大図、秩序と無秩序が混合していた。

①-3 以下の写真はさらに南部であるが、水田か畑地の区別は出来ないが、無秩序な区画の農地となっている。

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南部地域

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拡大、無秩序な無残な耕作地、多用途な土地が入り組んでいる。


② 朝鮮半島の支石墓の分布(日本の弥生時代)



③ 環東シナ海沿岸の支石墓の分布(日本の弥生時代)

山東半島の春秋戦国時代の斉国あたりが入っていないのに注目、日本では九州の西側に分布



④ 朝鮮半島の南西部(古墳時代の百済国あたり)

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⑤ 日本の古墳時代の百済国の地(朝鮮半島南西部)

前方後円墳があった。


⑥ 遼寧省には条里制地割の水田はなかった(参考)。


⑦ 任那日本府があり、このあたりから秦氏が渡来したところの任那には条里制地割や条坊制都市があった(参考)。


⑧ 山がちな山口県にも山間部にさえ条里制地割の水田があった(参考)。


⑨ 男性のY-DNA遺伝子の分布について韓国と日本の比較(参考)。


10 稲作渡来人の日本への渡来ルートの一覧(参考)。朝鮮半島には燕系弥生人(O2b)は朝鮮半島経由で南下した。また呉系弥生人も日本への直行便に乗ったが、朝鮮半島にも若干上陸した。すなわち、朝鮮半島南西部にはO2bを持った民族が卓越して定着した。漢民族(O3)の朝鮮半島への侵入過程については分からない。


11 中国、朝鮮半島の支石墓の分布と都市計画や田圃計画は一致する(参考)。