蘇我馬子と多利思北孤 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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乙巳の変(645年)で非業な死を遂げた蘇我の蝦夷・入鹿の親である蘇我馬子は当時、天皇の推古天皇と皇太子の聖徳太子の女系の外戚であったが、実際には上皇的な立場にあった。

蘇我氏は武内宿禰の直系の子孫であり、海人族安曇氏として、東シナ海から対馬海峡、日本海を支配し、天皇家を含む渡来人を日本に運んで来た(参考)。日本の土地は彼らが開発した。三種の神器を所持すれば天皇にもなれる資格をもっていた(参考)。蘇我馬子が推古天皇以上の権力を持っていても可笑しくなく(参考)、また中国・朝鮮半島の最新情報を持っており、特に対中国外交は彼以外には適任者がいなかった(参考)。

彼が多利思北弧であって当たり前である。姓の阿毎はアマ(天)の意味で海人族のことであり、彼は堂々と海人族の倭国王を名乗っていた。馬子、蝦夷、入鹿などの品のない名前は日本書紀などでの名前で、馬子の本名は多利思北弧(タラシヒコ、足彦、帯毘古)であろう。


参考

① 蘇我馬子の邸宅

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②-1 蘇我馬子とは(参考)

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②-2 wikiを抜粋する:

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②-3 遣隋使の行き来があったころ(600年から620年)の年表

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②-4 wikiでの蘇我馬子の人物像評
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③ 蘇我氏と推古天皇と聖徳太子

蘇我馬子は島大臣と呼ばれるが、子供の蘇我蝦夷は豊浦大臣と呼ばれた。馬子の女系の姪の推古天皇は額田部皇女として育ち、そして蘇我氏ゆかりの飛鳥の豊浦宮(トユラのミヤ)で即位している。(注: 額田部も豊浦も共に山口県下関市あたりの穴門国にあった)

聖徳太子は推古天皇の甥で、やはり蘇我氏の女系の子孫でもある。やはり、蘇我氏ゆかりの家に生まれ育ったであろう。

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④ 遣隋使の年表

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⑤ 隋書倭国伝にある遣隋使において、聖徳太子が隋の皇帝、煬帝に「日出ずる処の天子、、、」と言う国書を出したが、これに疑義があった。以下はあるURLからコピーした。

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⑥ 蘇我馬子を多利思北弧、足彦と喝破したURLを発見

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⑥ 倭の五王は武内宿禰の子孫であった(参考)


⑦ 『隋書』倭国伝

《倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。》『倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。』

阿輩雞彌は阿部(アベ)の君と読める。すなわち、北九州の宮地嶽神社あたりの安曇氏は阿部氏と呼ばれていた(参考)


⑧ 兵庫県揖保郡太子町鵤の地が蘇我馬子と推古天皇、聖徳太子の関係を示唆している(参考)


⑨ 7世紀初頭の新羅征討は蘇我馬子ゆかりの皇子達が征討将軍を務めた(参考)