高良大社の祭神の秘密、高良玉垂命とは | 日本の歴史と日本人のルーツ

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久留米市内の高良大社周辺の水田は条里制地割をもち、中国山東半島辺りからの文化、すなわち海人族安曇氏(武内宿禰の系統、後の蘇我氏)が開発した。ところが、市街は無秩序に開発され、江南の呉の太白の末裔、呉系弥生人の子孫の住宅地であった(参考)。

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高良大社の祭神は高良玉垂命、応神天皇、住吉大神であった。この高良玉垂命は誰なのか、かねてより研究課題になっていました。定説の武内宿禰説で間違いありません。神社の社殿は役行者が創建したという7から8世紀で間違いありません(参考)。筑後平野の大地主の海人族安曇氏の管理事務所であり、筑後平野に散らばる玉垂宮などは末端の管理支所でしょう。

この武内宿禰の子孫は例の蘇我氏であり、乙巳の変(645年)で中大兄皇子に殺された蘇我の蝦夷、入鹿親子でした。彼らは丸で天皇のような振る舞いであり、公家連中も彼らになびいていたとか!彼らは海人族安曇氏の一族で、日本の大家的な存在で天皇家を含め渡来人たちを日本に渡海させた蛇頭(スネークヘッド)の様な存在でした。彼らは三種の神器さえ持てば天皇にもなれる存在で、日常も天皇家の様な生活をしていました。最終的には入鹿は殺され、蝦夷は自殺した。彼らから見た歴史を聖徳太子と共に著わした天皇記や国記を燃やしてしまいました。国記はどうにか燃え残り、古事記の中に反映した様で、改めて分析すると新しい発見がありました。すなわち、大化改新以前の歴史は彼らの歴史が相当あり、響灘など山口県あたりを含む九州一帯は彼らのものの様です(参考)。沖ノ島祭祀も海人族安曇氏によるものでした(参考)。

また、あくまで推測ですが天照大神、卑弥呼、臺輿、推古天皇、持統天皇など女系天皇は蘇我氏系の様です(参考)。神功皇后が天皇とされないのは、武神として武士に信仰された皇后を天皇と呼びたくない明治新政府の意向による。

九州王朝説でも出てくる三種の神器ですが、三民族統合の象徴と言う意味が重要です。単一民族の九州王朝では不要です。応神天皇の不義密通誕生説(武内宿禰が父親)がありますが、これなら問題ありませんが、住吉大神父親説は絶対あり得ません!

彼らは独自の年号を持っていても可笑しく無く、彼らの血筋の聖徳太子が建立した法隆寺釈迦三尊の光背銘に「法興 32年」(622年)とあった。各地の寺院で発見される年号に彼らの年号が見つかる様です。九州王朝論者は蘇我氏の歴史を邪馬壹国以来の九州王朝のものだと捏造しています(参考)。

蘇我氏はあくまでヤマト政権に参画しながら、天皇的に振る舞っただけでした。蘇我氏の所領は全国に渡っており、九州に限ったものではありません。歴史の切り替わりは645年の乙巳の変から701年の大宝律令発布の間にあり、九州王朝論者の研究もこの辺にある(参考)。

彼ら九州王朝論者の研究成果を正しく評価し直せば、正しい歴史が分かるかも知れない。ただし、彼らの研究手法は考古学、人類学、遺伝子学、資料批判、その他の科学的手法を無視し、他地域の歴史も九州内に取り込み、ウリジナルそのもので、一部の成果以外は鵜呑みは出来ない(参考)。

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高良大社北部水田地帯、山東半島辺りから渡来した文化である条里制地割の水田

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高良大社西部、久留米市内、江南の呉系弥生人の文化を受け継ぐ乱雑な集落


参考

① 応神天皇や神武天皇にゆかりの著名な神社は綺麗な条里制地割の街並みを持っていた(参考)。


② 甘木・朝倉地域にはヤマト政権が駐屯していた(参考)


③ みやま市の高野の宮の武人木像は天理市から持ってこられた(参考)


④ 風浪宮、大川市は海人族安曇氏の神社(参考)