津屋崎から大島あたりの安曇氏 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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宗像三女神を祀る宗像大社を取り巻く、その他の古社は武内宿禰、少彦名命、恵比寿神、綿津見神を祀る海人族安曇氏の氏神であった。その末裔、宮地嶽神社の神官の阿部氏ゆかりの地であった。また、大島の漁師の他、多くの漁港で蛭子神(恵比寿神)を祀っていた。

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漁港にある蛭子神社(海人族安曇氏の氏神)


参考

①-1 本来は海人族安曇氏が沖ノ島を祭祀していた(参考)


①-2 伊勢志摩で伊勢神宮を支えることとなった(参考)


② 宗像市の大島の山頂の奥宮は天照大神を祀り、周りの漁港は海人族安曇氏であった。彼らの氏神は武内宿禰、猿田彦、恵比寿神であった(参考)。


③ 津屋崎の阿部氏(参考)

筑前、宗像郡の津屋崎は九州北部沿岸で最も古墳が集中する地域。平野の西、山塊の麓と東の海岸沿いに小さな集落が点在し、それぞれの集落の産神として少彦名命を祀る神社が集中している。

須多田の「須多田天降神社」は少彦名命を祀り、集落の外れにある須多田天降神社古墳の後円部に鎮座する。須多田天降神社古墳は周壕と土提が巡らされた、全長83mの津屋崎最大級の前方後円墳。大石の「風降天神社」は少彦名命、埴安命、保食神を祀る。「天守天神社」とも呼ばれる。由緒によると前述の須多田とこの大石の産神は元は共に天守天神社で、少彦名命を祀るという。そして、両集落の氏神はそれぞれ須多田麻呂、大石麻呂という兄弟神であるという。生家の「大都加神社」も少彦名命、埴安命、保食神を祀る。境内社に天満宮があり、旧社地には菅公の大宰府左遷の際に、船を繋いだという船繋石が残る。梅津の森山の中腹にある「森神社」は大己貴神、海津見神、少彦名命を祀る。そして、渡の「楯崎神社」、在自の「金刀比羅神社」。少し離れて、宗像の孔大寺山の中腹の「孔大寺神社」にもそれぞれ少彦名命が祀られている。

少彦名命。古事記では神皇産霊神の子とされ、日本書紀では高皇産霊神、高木神の子とされる。大国主の国作りに際し、海の彼方より天乃羅摩船に乗って訪れた渡来神。大国主の命によって国造りに参加した。小さな神で、鵝(ひむし、蛾)の皮の服を着ているという。医薬、酒、石、穀物神など多様な姿で、悪童的な性格を有する。のちに常世国へと渡り去る。少彦名命の名は大己貴命(大国主)と対になっているという。また、少彦名命は「恵比須(えびす神)」であるとも。この辺りには古代より「阿部氏」の存在がある。「宮地嶽神社」の神官の阿部氏、在自村の庄屋役の安部氏一族や、前記の神社群の燈籠などに刻まれた氏子名に、阿部姓は多い。津屋崎の少彦名命はこの阿部氏が祀るという。

この辺りは、古く、宗像三女神を奉祭する宗像氏の地。宗像郡一円は「宗像神郡」として宗像神社の支配下にあった。津屋崎町の神社の多くが宗像神社の境外末社に位置づけられ、「七十五末社」または「百八社」と呼ばれる。が、ここには宗像氏以前に、隠された歴史があったようだ。

津屋崎は宗像大社が鎮座する地より、名児山塊を隔てた宗像郡の西端に位置する。古く、この津屋崎の平野の中央には入江が広がっていたという。勝浦の砂洲が北から延び、渡半島を陸繋島として内陸に大きな入江をつくっていた。入江の奥、勝浦には宗像へと向かう官道がある。大宰府から延びるこの官道の半ばに、前項で記載の「久山の阿部氏」が在る。津屋崎の阿部氏との拘わりが気になる。

阿部氏の祖は第8代孝元天皇の長子、「大彦命」であるという。伊賀一宮、敢國神社は孝元天皇の長子、大彦命を主祭神とし、少彦名命を配祀する。大彦命は四道将軍として北陸を平定した後に伊賀に在し、その子孫は「阿拝氏」を称し「阿部氏」となる。よって大彦命は阿部氏の祖神とされる。そして古く、伊賀には「秦氏」が在り、少彦名命を祀っていたという。半島を経由して渡来した「秦」の民は、機織りの技術を我が国に伝えたため、秦氏という氏姓を与えられる。渡来氏族、秦氏は外来の神、少彦名命を氏神として祀った。阿部氏は秦氏と拘わりが深い。

また孝元天皇の子に「少彦男心命」がいる。殊に「少彦名命」を彷彿させる名である。阿部氏の祖、大彦命の弟にあたる。少彦名命は「少彦男心命」を神格化したものではなかろうか。そして、同じく孝元天皇の子「武埴安彦命」が「埴安命」に対応している。大石や生家で氏神として少彦名命とともに「埴安命」が祀られている。殊に兄弟神。

そして津屋崎の南は綿津見神を奉祭する海人族、阿曇氏の地。筑前では阿部氏と阿曇氏が重なる。「阿部」は阿曇氏の部曲、「阿曇部」とも。阿曇氏は応神天皇の頃、海人の宗に任じられた。律令制の下では内膳司の長官を務める。この官は二人で、阿曇氏と高橋氏が任ぜられた。高橋氏は阿部氏の一族で、阿部は「饗(あへ)」から来ているともいわれる。綿津見神は「少童命」。少童命と少彦名命が重なる。綿津見神が、阿部氏が祀る少彦名命と習合したとも考えられる。

津屋崎の宮地嶽の麓に鎮座する「宮地嶽神社」。この宮地嶽神社は正月の参拝者、年間参拝者数では太宰府天満宮に次ぐ、九州2位の神社。創建は約1600年前にさかのぼるといわれ、祭神は神功皇后、勝村大神(藤高麿)、勝頼大神(藤助麿)の三柱とされる。神功皇后が三韓征伐を前に、宮地嶽の頂きに祭壇を設け、戦勝を祈願して船出したという由来を持つ。山頂には古宮の祠と日の出の遥拝所がある。社殿の奥に、全長23mという日本最大級の横穴式石室をもつ宮地嶽古墳がある。付近は津屋崎古墳群と呼ばれる古墳の密集地。胸形君の一族の古墳群といわれる。宮地嶽古墳は6世紀末から7世紀初期のものとされ、天武天皇の妃、尼子娘の父である「胸形君徳善」の墓ではないかといわれる。この古墳からは瑠璃玉やガラス、刀装具、馬具など三百点ほどが出土し、うち数十点が国宝。その繁栄を偲ばせる。

古文書や古い縁起によるとこの宮地嶽神社の祭神は、「阿部丞相(宮地嶽大明神)、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)」となっている。筑前國續風土記拾遺によると「中殿に阿部亟相、左右は藤高麿、藤助麿。此三神は神功皇后の韓国言伏給ひし時、功有し神也といふ。勝村、勝頼両神は三韓征伐で常に先頭を承はり、勝鬨を挙げられたりと祀る。」とある。

藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。
「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である。塵輪には翼があり、天空を自在に駆けめぐることができたという。羽白熊鷲のこととも。

津屋崎の北部に「勝浦」がある。ここには「勝部氏」が在したと伝わる。勝部氏は秦氏の一族で宇佐の辛嶋勝氏に繋がる。阿部の勝村、勝頼の両神とはこの勝部氏に拘わるという。勝浦の南、奴山に織物媛神を祀る「縫殿神社」が在る。応神天皇の頃、呉の国から兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)呉織(くれはとり)穴織(あなはとり)の4人の媛が、織物の技術を伝える為にこの地に招かれた。兄媛はこの地に残り、呉の織物を伝えたという。「呉服」の由来である。縫殿神社は日本最初の織物神。

神功皇后が新羅より凱旋して大嘗会を行なった時、阿部氏の祖先が「吉志舞」を奏したという。吉志舞の吉志は「吉師」で、阿部氏は吉師部を統率したという。大彦命の子に「波多武日子命」があり、その子孫が「難波吉師三宅」を名乗る。「吉師」は外交を職務とした渡来人。
応神期に東漢氏の祖、「阿智吉師(あちきし)」と西文氏の祖、「王仁(和邇)吉師(わにきし)」が半島から渡来している。日本書紀の応神天皇37年に天皇は「阿智吉師」を呉に遣わして、縫女(ぬいめ)を求めさせた。呉の王は兄媛、弟媛、呉織、穴織の4人の媛を与えたとある。そして雄略天皇の頃、秦氏の秦酒公が「勝部」を率領して絹を貢進したとある。津屋崎の縫殿神社で勝村、勝頼の両神を通じて、阿部氏と秦氏、勝部氏、吉師が重なる。縫殿神社の傍には「酒多神社」。少彦名命と秦氏の秦酒公には「酒神」が欠かせない。宮地嶽神社の勝村、勝頼両神は秦氏の一族で、織物を司る勝部。

そして宮地嶽神社の主祭神、「阿部丞相」とは何者であろうか。阿部丞相は神功皇后の三韓征伐従い、功があったという。丞相(じょうしょう)とは、古代中国の秦や漢王朝における最高位の官吏。今でいう総理大臣。となると「武内宿禰」のことであろうか。神功皇后に従った阿部氏族に、崗県主熊鰐と吾瓮海人烏摩呂がいる。崗県主熊鰐は仲哀天皇が筑紫に行幸した際、周芳に迎えた。「崗」とは「遠賀」。遠賀郡に子孫が残り、八幡の豊山八幡神社を奉祭するという。吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)は、半島への中継地、阿閉島を本拠とする。熊鰐が仲哀天皇に献上した津屋崎沖の「相島」である。三韓遠征の際、吾瓮海人烏摩呂は志賀島の阿曇氏に先立って、西の海に偵察に派遣される。が、この二人は「丞相」とはいえない。

やはり「阿部丞相」とは武内宿禰であろうか。そういえば、前項の久山の阿部氏は「黒男神社」で武内宿禰を氏神として祀っていた。少彦男心命は古事記では「少名日子建猪心命」。武内宿禰の父は「屋主忍男武雄心命」。孝元天皇の二人の皇子の名がここで重なる。古事記では「屋主忍男武雄心命」は登場しない。そして、少彦男心命と重なる神霊、「少彦名命」を津屋崎の阿部氏が氏神として祀る。阿部氏族と肥前の武内宿禰氏族の多くが重なる。前述の大彦命の子、波多武日子命は武内宿禰氏族、松浦の波多氏。阿部の「吉師」も松浦の岸、鬼子の海人。阿部氏が武内宿禰氏族である可能性も考えられる。

宗像、鐘崎の名神大社「織幡神社」に、武内宿禰が秦氏や宗像神に拘わる興味深い伝承が残る。神功皇后の三韓征伐に際し、宗像神が「御手長」という旗竿に、武内宿禰が織った紅白2本の旗をつけ、この旗を振って敵を翻弄して最後には沖ノ島に旗を立てたという。武内宿禰が旗を織ったのがこの織幡神社。そして武内宿禰は「我死なば神霊は必ずやこの地に安ずべし。」と伝え、境内に沓を残して昇天したと伝えられる。その「沓塚」が境内に残る。一見、荒唐無稽な話のようだが、この逸話は宗像氏が武内宿禰の軍勢と共に戦ったこと、また武内宿禰が織物氏族を統括していたこと、武内宿禰が宗像神の奉祭に拘わっていること、などを示していよう。

織幡神社は宗像郡では宗像大社に次ぐ名社。半島に至る「海北道」の基点、鐘崎の港の先にある鐘ノ岬の佐屋形山の頂きに鎮座する。武内宿禰を主祭神として、神官は武内宿禰の臣、壱岐真根子臣の子孫であるという。宗像郡には武内宿禰の足跡は濃い。秦氏は前秦の王族が半島経由で日本にたどり着いたとも。秦の氏族を祖とする筑紫の阿部氏は、渡来のえびす神、「少彦名命」を氏神とする。彼らは大いなる指導者、武内宿禰に故国の最高官名を冠し、「阿部丞相」として宮地嶽に祀った。そして津屋崎の阿部氏は道主貴、宗像三神を奉祭する宗像氏に拘わってゆく。


④ 新宮町の相島は海人族安曇氏の島(参考)

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⑤ 北九州市の藍島もまさに海人族安曇氏の島だった(参考)


⑥ 津屋崎の地名由来にまつわる波折神社の祭神が瀬織津姫であり(参考)、海人族安曇氏が祀る玉依姫や天照大神と同一神であった。