蘇我蝦夷、入鹿亡き後の蘇我氏は蘇我倉山田石川麻呂が継いだ。彼も殺されるが、天智天皇の妃となった娘の女系の子孫が伊勢斎宮や女帝になっている。また、蘇我氏など一族全体としては天皇に反抗した節がない。どうしてであろうか?
蘇我氏(海人族安曇氏)の本土の所有地は公地公民として没収されるなど不利もあろうが、一族全体としての利権は維持された。
すなわち、記紀の中の彼らの歴史も盛り込まれ、例えば天照大神などの女帝の記載などがあった。変以降も目立って蘇我氏由来の女帝が輩出した(参考)。伊勢志摩を中心とした紀伊半島から伊勢湾全体、北の若狭湾、西の大阪湾あたりの安定的な漁業権などが確保出来たことで不満は抑えられたのであろう。
追加(2015.9.2)
後の研究で乙巳の変(645年)は実は697年頃の事件で、それまでに蘇我氏は弱体化していた。蘇我氏の王朝は持統天皇の死で終了したと考えて良い(参考)。持統天皇のあと女帝が二人出ているが、ある意味、蘇我王朝の在庫一掃人事と考えて良い。
参考
① 乙巳の変以降の蘇我氏
② 伊勢神宮の創建(参考)
日本国の天皇家の祖霊廟としての風格を備えた神宮創建(あるいは大改造)に着手し、690年頃に伊勢神宮の内宮、698年頃に外宮が完成したものと思われるが起源に関する史料がない。
伊勢神宮の成立について確かなのは、現在地での成立が文武天皇の698年であること。彼は律令体制を築いた天武・持統両実力天皇の孫。伊勢神宮は『日本書紀』と同様に、日本国の体制固めのための歴史や祭祀整備の一環であるが、天武天皇は完成を待たずに死去した。
④ 沖ノ島は、宗像氏による三女神祭祀と、古くからの近隣漁師(海人族安曇氏)による天照大神祭祀が並行して執り行なわれている(参考)。
⑤ 天照大神を祀る伊勢神宮は伊勢志摩に根拠地とする海人族安曇氏に支えられ、魚介類や塩は神饌として神宮に供され、さらに都の食料として運搬される(参考)。
⑥-1 御食国、海人族安曇氏が天皇の為に海の幸を漁獲する国