蘇我氏の母系末裔は女帝候補であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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蘇我氏はどうも母系に血統がつなかった。当時は母系社会であった様で、蘇我蝦夷、入鹿親子の死後も母系の子孫が女帝になったり、藤原氏の一族の女系の血の中で現在まで連綿とつながっているとか!

日ユ同祖論で話題になる男系男子で伝わるY-DNA遺伝子D2については、中東のE系統などとのつながりが現在は無く、主張は頓挫した。ユダヤ教徒の母の子はユダヤ教徒になれることで連綿とつながって行くことを指摘した(参考)。

蘇我氏の先祖は海人族安曇氏であっが、海女には母系性があり蘇我氏の観点からは男系男子には固執していない。逆に天皇家が男系男子にこだわる理由は、斉系弥生人としてのルーツに山東半島の付け根あたりの春秋戦国時代の斉国の隣の魯に孔子が生まれ、彼の儒教が誕生したことと関係があろう(参考)

すなわち、卑弥呼、臺與や子孫の女帝達は海人族安曇氏の子孫である蘇我氏の出であろう。すなわち、天照大神が実在したかどうかは分からないが、安曇氏が響灘の沖ノ島に祀ったと考えると腑に落ちる。男系男子の天皇家で初代と三代が女性では形にならないので、天照大神として高天原に棚上げしたと考えられる。宗像三女神は日本書紀が初出で720年以降の神様で、例えば卑弥呼、臺與、神功皇后を象徴したのであろう。

神功皇后を天皇に格上げしなかった理由は明治時代になって、江戸時代までの武士の八幡信仰、すなわち神功皇后信仰を否定する政治的なものだった。神功皇后の母方は武内宿禰(安曇氏)の出であり、天皇の資格があった。ところで、父方の息長氏は息が長く続く若狭湾の海人のことと言う説がある。

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参考

① 日本は母系文化社会だった(参考)

そして、明治時代まで庶民は(武士社会は除く)母系文化の中にいた。だから、江戸時代まで日本では地域特性や生産様式によって、多彩な婚姻様式を持っていた。その一つが、「入婿」の婚姻制度である。他の血が混ざる「入婿」など許されない儒教文化や、家族構成は神が創るものなので「入婿」など許されないキリスト文化。それに比べて、生産手段を持った共同体が機能しやすいように、多彩に婚姻形態を適応させていた日本。


② 母系社会に関するwikiの抜粋

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③ 古代日本の婚姻と家族: 母系社会と通い婚(参考)の抜粋

古代日本における婚姻と家族のあり方が、近年まで支配的であった嫁取り婚、つまり女が男の家に嫁ぐといったあり方とはかなり様相を異にしていたことは、文献その他を通じて広く理解されるようになってきた。

古代日本における婚姻の基本は、男が女を見初めて女のもとに通う、あるいは女の家族が男を迎え入れるといったことを基調としていた。つまり女を中心として婚姻が成立していたのである。

男が女の下に通う通い婚の具体的な姿は、万葉集や日本霊異記に散見される。また男が女の家に同居する妻方居住婚の例も多く見られる。それに対して、女が男の家に住む夫方居住婚は、女の身分が男に比べ極端に低い場合など、例外的なケースだったと見られる。

このように女を中心にして婚姻関係が成立したのは、日本には先史時代から母系社会の伝統が根強く、その名残というか影響が、平安時代の中期ごろまで作用していたことの反映であると考えられる。


④ 乙巳の変以降の蘇我氏の子孫の消息

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女帝としては48代の称徳天皇も子孫か?


⑤ 蘇我氏出身の皇后の皇女は女帝になる可能性があった(参考)。


⑥ 蘇我氏(海人族安曇氏)の系統、元伊勢、籠神社の海部氏の系図に卑弥呼と臺輿の名前が載っている(参考)。実は、倭迹迹日百襲姫(卑弥呼や臺輿)は海人族安曇氏の出であった(参考)。


⑦ 武内宿禰以降、葛城氏、蘇我氏と皇后、女帝を輩出していた(参考)。