縄文時代からの稲作文化について | 日本の歴史と日本人のルーツ

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どうも、渡来系弥生人が入植する前から既に水田は出来上がっており、後から渡来系弥生人の農民が渡来して現地に入植したのでは?と考える様になった。この考えは、筑後平野は山東半島辺りの条里制地割の水田でありながら(参考)、住宅地は条里制を無視して我先に宅地造成した形跡が今でも残っており、中国揚子江流域の江南からの呉系弥生人の渡来が伺われるからである(参考)。

例えば筑後平野の場合、縄文時代から生存する内陸縄文人(D2)と海人族安曇氏(C1)が山東半島辺りの条里制地割を参考に水田を造成し、渡来系弥生人(呉系、O2b)を入植させ、本格的な弥生時代となった(参考)!

それでは、日本最古の縄文時代の水田遺跡、唐津市の菜畑遺跡はどうであろうか?この時代、内陸縄文人(D2)と海人族安曇氏(C1)が存在し、山幸は内陸縄文人(D2)が獲得し、海幸は海人族安曇氏(C1)が獲得し、物々交換していた!(参考①にあるような、一種類の縄文人が鹿、猪、木の実を採ると同時に、大型鯨の漁獲まで行う万能人種とは考え難い。二種類の民族が居た)と、考えられないか(参考)!

参考②にある菜畑遺跡などの縄文時代の水田稲作についての考察について、一種類の万能縄文人について考察しているが、2種類(D2とC1)の縄文人の存在を考えられないか!この海人族安曇氏(C1)が自ら、又は内陸縄文人(D2)を稲作文化圏に渡海・留学させるなりして、水田造成技術、耕作技術、農具そして水稲種子を獲得して帰国した!もちろん、中国大陸などから現地農民(O2b)を招聘することも考えられ、これが後の渡来系弥生人の本格渡海となると考えられるが、如何であろうか!

縄文人の人骨は今の所、2種類あるとは発表されていないが、海岸部の遺跡は海人族安曇氏(C1)のもので、これを狩猟稲作漁撈民としての縄文人と考えているのであろう。その証拠は北部九州の墓制が朝鮮半島の支石墓であるところある(参考③)。内陸部の狩猟縄文人(D2)は無視出来るくらい少数であったか!海人族安曇氏との交流で混血して、見かけの表現形質が同化したのであろうか!この2民族の文化交流や見かけの表現形質の同化が、縄文時代から稲作弥生時代への連続的な移行を意味している。すなわち、在来系弥生人(縄文人)が主流で人口増加して、渡来系弥生人は少数だったと言う考古学会の珍説はこれで説明できる。D2については、後々渡来する斉系弥生人や秦氏の渡来で充足される。

ちなみに、以下の唐津市菜畑遺跡近くの現在の街路を航空写真を見て欲しい。綺麗な条里制地割になっている。これは、街並みの初期開発者が山東半島辺りの条里制地割の知識を持った海人族安曇氏の末裔による都市計画と考えられ、渡来した稲の渡来元が山東半島辺りと言う②の研究報告とも一致する(参考)。


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唐津市の西部、菜畑遺跡近くの市街地

参考

① 縄文人の食生活(参考)

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② 水田稲作文化を伝えたのは縄文人か!(参考)

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③ 日本の支石墓(しせきぼ)は、数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せる碁盤式の墓である。日本では、縄文時代晩期の九州北西地域に出現する。当時、朝鮮半島南西部で支石墓が最盛期を迎えており、朝鮮半島からの強い影響があったものと考えられている(参考)。主に松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広まった。支石墓直下の埋葬方式としては、土壙墓・甕棺墓・石棺墓など様々な形態がとられていた。(wikiより)。朝鮮半島では、北方が石棺・支石墓、南方が甕棺・支石墓のようである(参考)。


④ 弥生時代の唐津市や松浦市(参考)