倭の五王は武内宿禰の子供達で、沖ノ島祭祀を行った | 日本の歴史と日本人のルーツ

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倭の五王の時代は武内宿禰の子孫、葛城氏が力を持っていた時代であった。彼等は自分たちの娘を天皇家に入内させて、背後で政治を行った。すなわち、倭の五王は葛城氏の棟梁達でした。彼等は海人族安曇氏であり、日本列島から朝鮮半島、中国大陸を自由に行き来しており、倭の王を名乗って対外交渉していた。後代の蘇我氏も同様で、隋書に出てくる多利思北狐は蘇我馬子であった(参考)。

武内宿禰を祖とする氏族は母系社会であった(参考)。記紀は男系男子を基本に書かれているので、母系の系図は無く、母から娘への流れは見出せないが、母系を仮定すると腑に落ちる。すなわち、武内宿禰の子孫達は、入り婿達で多くの氏族が興亡を繰り返すが、裏に隠れた母系の流れは一貫していた。これは、蘇我氏の末期の女帝の系図で証明できる(参考)。

これで理解出来るが、4世紀後半から7世紀前半までの豪華な沖ノ島祭祀は武内宿禰の子孫、葛城氏、蘇我氏によるものであった(参考)。

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葛城氏の5人の王と天皇の対応私案、系図の引用元

これに反発した天智天皇による乙巳の変以降、政治権力の男系男子継承にまとめられて、記紀では男系男子の万世一系にまとめられた。武内宿禰以来の葛城氏や蘇我氏の母系の歴史が消されたのである(参考)。

沖ノ島祭祀が645年の変以降、宗像氏に委託されて以来(参考)、変容していった理由がよく分かる(参考③)。


追加(2015.9.2)

後の研究で乙巳の変(645年)は実は697年頃の事件で、それまでに蘇我氏は弱体化していた。蘇我氏の王朝は持統天皇の死で終了したと考えて良い(参考)。持統天皇在位のあと女帝が二人出ているが、ある意味、蘇我王朝の在庫一掃人事と考えて良い。考古学的な時代区部について、乙巳の変(645年)を基準としたものは50年位ずらす必要があるかも知れない。


参考

① 倭の五王について(wikiより)

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{A8337664-6F7F-40CF-AF60-F675AD2E0F34:01}


③ 倭の五王と天皇の対応(参考)

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③ 大化2年(646年)、大化改新の詔によって国郡制が敷かれ、宗像氏は宗像神郡の大領と宗像大社の神主を兼任し、神郡の行政を司った。また、遠賀郡などの郡司も兼ねる(wikiより)。


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7世紀後半から8世紀前半の期間にあった半岩陰・半露天祭祀は、わずかな岩陰と大部分の露天との両所にまたがって行われた祭祀です。岩陰祭祀から次の露天祭祀へと至る過渡期の祭祀形態として位置付けられています。 唐三彩や金銅製龍頭など中国との交流を示す奉献品が捧げられました。また、伊勢神宮の神宝と共通する奉献品も見つかっており、この祭祀段階は、律令国家によって体系化された祭祀制度である神祇祭祀(じんぎさいし)の先駆的形態と評価されています(参考)。



④ 葛城氏の記憶に高天原があった(参考)