百済寺、湖東三山、滋賀県 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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滋賀県の琵琶湖東岸に百済人たちが入植した。ここに百済寺があるが、日本人の心の故郷であった。

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参考

① 百済寺について(参考)

『近江西国観音霊場第十六番』
『神仏霊場第141番(滋賀第9番)』
『百寺巡礼第35番』(五木寛之)
『湖国十一面観音霊場第十番』
『びわ湖百八霊場第64番』

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② 百済寺と百済遺民(参考)

滋賀県に、湖東三山の一つ、百済寺がある。7世紀初め、推古女帝の時代に創建された古刹である。当時、七堂伽藍の壮大な大寺で、1000人の僧徒がいたという。


寺の由来について、『古代近江の朝鮮』には、次のようにある。「寺伝によると、寺を創建したのは聖徳太子で、十一面観音菩薩を本尊に、百済の竜雲寺を模して御堂を建てたという。その落慶にあたっては、百済の渡来僧、道欽らが供養し、このため百済寺の寺号が生まれた」


663年、倭国(日本)の救援を仰ぎながらも、百済は白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に敗れる。その遺民が大挙して、倭国に逃れ、近江の地へと移り住んだことはよく知られている。百済と滋賀とは、縁が深い。


天智天皇が奈良から遷都した近江朝で、学頭職(今でいえば大学総長クラス)を務めた鬼室集斯も、百済の遺民である。近江朝では、百済の高官たちが数多く関わった



③ 百済寺あたり

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④ 百済遺民達の土地は元々、海人族安曇氏のものだった(参考)

琵琶湖の西岸に安曇氏の一族の根拠地と思われる地名、安曇川がある。さらに、大化改新を実施した天智天皇の宮である琵琶湖の西岸の大津宮あたりと、百済国からの遺民が入植する東岸の広大な平野(条里制地割がある水田が今もある)は、645年まで全て安曇氏(蘇我氏)のものだったとすると辻褄が合う(参考)。

蘇我入鹿を殺した乙巳の変(645年)以降、大化改新の名目で取り上げた土地に、白村江の戦いの敗戦後(663年)に百済国からの遺民を入植させた。この時、地名を新たに付け直したが、これが山口県西部の地名『野洲(安岡)、蒲生野、竜王、豊浦、豊田、日野、日野川、中山、大津、近江(淡海、青海)』と一致する(参考1参考2参考3)

日野は全て条里制地割の水田であり(参考)、白村江の戦いの敗戦(663年)後に百済遺民を入植させた土地に滋賀県の日野がある。


⑤ 百済人は倭語をしゃべった(参考)


⑥ 天皇と百済(wikiより)

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⑦ 大阪にも百済人は定住した(参考)