未完の条坊制都市、大宰府 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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現在の太宰府の街並みを見て欲しい!大宰府跡から南、御笠川の間、すなわち観世音寺1丁目と2丁目は美しい条坊制となっているが、それより南は全く条坊制の地割では無い!

筑紫地震(678年)と白鳳地震(684年)で建設がストップしたと考えると(参考)、663年頃に大宰府を掘立柱の建物として建設開始し、702年頃に再度、礎石付きの建物で再建したとする発掘結果と辻褄が合う。

観世音寺も同様に被害を受け、完成が8世紀中頃になるとする報告も理に適う。

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参考文献④では条坊制が一度は完成し、その後衰退して行くと考えている。しかし、そう考えるとことは、御笠川を境に明確に分かれ、南部の条坊制破壊地域に全く条坊制の面影が無いことなどが不合理である。

他地域の条里制地割を見れば分かるが、そう簡単に地割が動いて乱れない(参考)!逆に物部氏が作る街並み(城下町)は大体乱れている(参考)。

白村江の戦いの大敗(阿倍比羅夫、安曇比羅夫の戦死、参考)や筑紫地震などで大宰府を建設した蘇我氏(海人族安曇氏の一族)の力が失われて行ったのであろう。


注意: 2016.1.25の研究で条坊制は無いと報告した(参考)。御笠川北岸の美しい街並みは昭和50年代の住宅の造成時に作られたものであった。古代の条坊制の上に現代の街並みを上乗せしたかどうかの報告を待ちたい。


参考

① 大宰府の建設時期(参考)

第一期の掘立柱建物は663年の「白村江の戦い」の敗戦後に、水城・大野城・基肄城と同時期に建造され、第二期の地中の礎石建物は大宝律令施行の702年頃に建造され、941年の藤原純友の乱により焼失した。現在地上に見える礎石は、その後に再建された建物のものということになった。一緒に出土した瓦や土器片が、それを裏付ける。



② 678年、684年、西日本を地震が襲う(参考1参考2)

筑紫地震(つくしじしん)は飛鳥時代後期(白鳳時代、678年)に九州北部で発生した大地震であり、『日本書紀』に記述されている。日本書紀には筑紫地震前後から地震の記述がしばしば登場する。1988年に太宰府の上津土塁の調査を行っていた久留米市教育委員会の松村は上津土塁の一部が滑り落ち、8世紀後半の版築土で修復された痕跡を発見した。その後、7世紀後半頃の墳砂痕、三井郡北野町(現・久留米市)の古賀ノ上遺跡の地割れおよび墳砂痕など続々と地震痕跡が発見された。本地震の約6年後には南海トラフ巨大地震である白鳳地震が684年に発生している。


③ 観世音寺(参考)

『続日本紀』の記述によると、太宰府の観世音寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したという。斉明天皇は661年に没していることから、それからほどなく造営が始められたと推定される。『二中歴』には観世音寺創建は白鳳年間(661年-683年)のことであるとの記事が見える。『続日本紀』の和銅2年(709年)の記事によると、この時点で造営はまだ完了しておらず、完了したのは発願から約80年も経った天平18年(746年)のこととされる。後世、何度か火災や災害に遭い再建されている。現在残る観世音寺の建物はすべて近世の再建で、昔の面影はないが、発掘調査によると、回廊で囲まれた内側の東に塔、西には金堂が東面して建つ、川原寺式に近い伽藍配置であった。

観世音寺境内から出土した瓦のうち、創建時の瓦とされるものは、老司 I式と称され、飛鳥の川原寺や藤原京の瓦の系統を引く、複弁八弁蓮華文の軒丸瓦と偏行唐草文の軒平瓦の組み合わせからなるものである。この老司 I式瓦は現在の福岡市南区老司にあった瓦窯で焼造されたもので、7世紀にさかのぼる(wikiより)。


④ 大宰府条坊制完成予想図(参考)

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⑤ 大宰府は蘇我氏(北九州を拠点とする海人族安曇氏の一派)が建設開始したと考えられる(参考)


⑥ 朝鮮式山城も蘇我氏が建設した(参考)
 

⑦ 発掘調査報告(参考)、無理やり発掘調査結果と条坊制を結び付けようとしているが、傍目から見れば絶望的である。例え、朱雀大路とか外周道路などは都市計画時に作られても、果たして中身まで条坊制が完成していたか疑わしい。


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⑧ 大正時代(1920年)の地図では条坊制は無く、最近(1990年あたり)から都市計画された(参考)