そして、現在まで関門海峡の玄関口となっている(参考)。
③ 赤間関の寺社の創建年代
「霜月の廿九日、長門の国府を出て、赤間の関にうつりうきぬ、ひの山とかいふ、ふもとのあらいそをつたひて、はやともの浦に行くほどに、向の山は豊前の国門司の関のうへのみねなりけり、海の面は八町とかやいふめり」と書いているように、当時は山裾の荒磯づたいに旧壇之浦に着いたようである。
注意: ここの長門の国府とは、下関市長府にあった幕府の庁舎、長門守護館が置かれた後の長府のことで、野久留米街道から前田、火の山山麓、みもすそ川から壇之浦に向かうルート(現在考えられている旧山陽道)を記述している。
⑤ 前田は臨門駅では無かった(参考)
⑥ 現在の亀山八幡宮の境内は、辺りを毛利家が開作するまでは小島でした。
江戸時代の始め頃、湊を造る為、毛利家が干拓工事を起こします。しかし海峡の潮の流れは、ひと岩沈めれば、直ぐ流される激流で、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで、なかなか成し遂げられませんでした。そんな折、稲荷町の痘痕のある“お亀さん”という遊女が、人柱に立つことを自ら申し出ます。白衣に身を包み、海に身を投じて、埋立が捗ることを願ったのだと云われています。亀山八幡宮の辺りを、毛利家が干拓(開作)し拡げて、八丁浜(ハッチャハマ)を造ったのが史実です(参考)。
、、、人柱を立ててまで難工事を実施する位、他に代替の無い重要な港であったことが伺える、、、