臨門駅とは亀山八幡宮のことだった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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古代官道の山陽道の本州側の終点の臨門駅(927年に編纂の延喜式による、参考)は赤間関の亀山八幡宮だった。

そして、現在まで関門海峡の玄関口となっている(参考)。

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左: 亀山八幡宮、右: 堂崎の渡し(江戸時代)

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参考

① 古代山陽道は長門一宮、住吉神社を南北に走り、赤間関(下関市唐戸)に到着した(参考)


② 平安時代末期の臨海館の跡が、亀山八幡宮の真北につながる引接寺の場所であった(参考)


③ 赤間関の寺社の創建年代

亀山八幡宮859年、日本西門鎮守八幡宮と阿弥陀寺859年(参考)、末廣稲荷神社809年(参考)


④ 今川了俊の1371年の『道ゆきぶり』(参考)

「霜月の廿九日、長門の国府を出て、赤間の関にうつりうきぬ、ひの山とかいふ、ふもとのあらいそをつたひて、はやともの浦に行くほどに、向の山は豊前の国門司の関のうへのみねなりけり、海の面は八町とかやいふめり」と書いているように、当時は山裾の荒磯づたいに旧壇之浦に着いたようである。

注意: ここの長門の国府とは、下関市長府にあった幕府の庁舎、長門守護館が置かれた後の長府のことで、野久留米街道から前田、火の山山麓、みもすそ川から壇之浦に向かうルート(現在考えられている旧山陽道)を記述している。


⑤ 前田は臨門駅では無かった(参考)


⑥ 現在の亀山八幡宮の境内は、辺りを毛利家が開作するまでは小島でした。

江戸時代の始め頃、湊を造る為、毛利家が干拓工事を起こします。しかし海峡の潮の流れは、ひと岩沈めれば、直ぐ流される激流で、工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで、なかなか成し遂げられませんでした。そんな折、稲荷町の痘痕のある“お亀さん”という遊女が、人柱に立つことを自ら申し出ます。白衣に身を包み、海に身を投じて、埋立が捗ることを願ったのだと云われています。亀山八幡宮の辺りを、毛利家が干拓(開作)し拡げて、八丁浜(ハッチャハマ)を造ったのが史実です(参考)。

、、、人柱を立ててまで難工事を実施する位、他に代替の無い重要な港であったことが伺える、、、