僕は手帳をカバンから取り出し、めくる。そして、一樹君が汚い字で書いた番号に電話した。
「はい、誰?」
「一樹か、俺、行進ゼミナールの南だよ」
「あ、せんせえい」
 良かった、明るい声だ。
「元気か」
「うーん」
「勉強は」
「分からない」
「分からないって」
「難しいんだ」
「他の塾は」
「無理だよ、無理」
「行ってみたのか」
「お母さんにも言われた。おまえは無理だって」
「そんな……」
他人の子供の面倒は見るのに自分の息子は放っておくのか。
「お母さんに替わってもらえないかな」
「まじで? いいけど」
 彼がそういった後、ドアを開ける音、ドドドドド、という廊下か階段を駈ける音、そして「おかあさーん」と叫ぶ声が聞こえた。
「はい、替わりました」
「私、行進ゼミナールの南と言います」
「あ、先生ですか。一樹がお世話になりました」
「いえ、まあ」
「どのようなご用件でしょう」
「え、ええとですねえ」
 何を言うつもりなのだろう、僕は。
「一樹君、勉強の方は」
「それは、先生が良くご存じでしょう」
「あ、はい。なので、と言ったら大変、失礼かもしれませんが、他の塾へということは」
「先生」
「は、はい」
「正直に言います。一樹が今から他の塾へ行って、面倒見てもらえると思いますか?」
「それは……」
 分かっている。もし僕が他の塾の先生だったら、今の時期に学力状態の分からない子を教えることは手間がかかる。他の子にも影響を与えかねない。拒否するのが正解、というのは分かっている。しかし。

「塾の話、していい?」
「もちろん」
 そう、忘れる事などなかった。
「僕の所にも、正確に言うと僕の母親に連絡が入った。一樹君のお母さんからね。行進ゼミナールは諦めて、他の塾に移りましょうとのことだった。そこで転塾希望者は十日までに各学校の担当者、家の中学だと一樹君のお母さんまで連絡を入れると、まとめて手配してくれるんだってさ」
「そこまで、やってくれるんだ」
「そういうのが好きな人は、どこにでもいるみたいだね」
「永井君は、どうするの」
「僕はお断りしたよ。学校と自習でまかなうことにした」
「そういう、対応策、だね」
「そういうこと」
 彼は「また、連絡するよ」といって切った。
 僕は、変な話、彼の「また」と言う言葉に強く引っかかった。繋がりを強く感じたからだ。
「繋がり、か」
 やはり、気になるのだ、秀吉クラスの連中が。彼らは無事に転塾出来るのだろうか。十月から十一月にかけての生徒激減期の時でも、秀吉クラスは残った。一樹君も残っていた。親はきっと転塾させたい気持ちはあったはずだ。しかし、彼はずっといたのだ。僕の教える、秀吉クラスに。
「どうしているのか」
 今の僕みたいに、自分の部屋でぼーっとしているのだろうか。ちゃんと机に向かって勉強しているのだろうか。それとも、遊びに……。それは、ないだろう。彼自身高校に行きたがっていた。それに、自分の学力がぎりぎりということも知っていた。だから、試験に向けて頑張ろうって言ったっけ。
「やっぱり、ほっとけない、か」
 

 そう言って、彼女は帰っていった。僕らも帰るしかなかった。
 最後に建物から出ると、見慣れた顔がいた。
「永井君」
「先生」
「帰らなかったのか。寒いのに」
「先生。あまり気にすることはない。母親達、楽しそうだった。駅前のファミレスに向かって行ったよ。これから皆集めて楽しむんじゃないかな」
「楽しむって」
「だから、この塾のことはあの人たちに任せて、先生は先生で次に進めばいい」
「永井君は、どうするの」
「別にこの塾が無くなっても、受験の日は来る。その為の対応策はいっぱいある」
「まあ、君は、安心だな」
「じゃあ、また」
「おう、また」
 彼は自転車で帰っていく。もう誰もいなかった。僕はカギを閉め、外から戸締まりを確認する。習性のようなものだ。でも、もしかしたら今日で終わりかもしれない。いや、分かっている。今日で終わりだということを。
 三日経った日の朝、一本電話が入った。永井君からだ。
「先生、大学はじまった?」
「いや、まだだよ」
「大学はいいよね、休み長いから」
「ああ。暇だけどね」

「家で、待機。そして、自習」
 でも、もし、来てもらうような場合となったら。講義室には何もなかった。生徒の名簿も。
「そうだ、おまえ達。住所と電話番号、教えてくれ」
 僕は手帳とペンを回し、書いてもらった。
 講義室では親御さんの数が増えていた。そこで会議が始まっていた。
 僕ら先生は生徒を外まで見送り、一人残らず外に出した。
 講義室に戻ると、最初に来た母親が僕らに言った。
「あなた達だけでは、どうしようもないでしょう。後は私たちが対処しますから」
 それだけ言って、親御さん達は講義室を出て行った。
「あの、私のお給料は……」
 彼女の言葉に、誰からも返答はなかった。
「俺たちは、どうしようか」
 再びからっぽになったこの部屋に先生、といっても大学生四人が残った。
「どうしようも、ないよ。所詮バイトだからね」
「塾長はぼこぼこにしたいけど、まずお金稼がないと返済に間に合わなくなる」

 いきなり帰ろうとした彼女を引き留めながら言った。
「ちょっと、考えよう」 
 しかし、どうしようもないことは分かっていた。時間は過ぎ、生徒は「どうするの」って三分に一回は講師室に入ってくる。親御さんの人数も三人になった。
「まずは、子供達、帰しましょう。ここにいても、勉強も出来ません。今、大事なときですから」
 最初に来た母親の意見に従うことにした。僕はその事を伝えに秀吉クラスに行く。
 部屋は寒く、体育座りで端に固まっていた。
「おまえ達、今日は授業はなしだ。帰っていいぞ」
 僕は少し戯けながら言った。授業、無くなったんだぜ、遊んでいいんだよ、今日は。ラッキーじゃないか。という感じで。
「先生、私たち、見捨てられちゃったの?」
 茶髪だった女の子二人とも、黒い髪に戻していた。その子達が半泣き、半笑いの複雑な表情で僕を見つめた。他の生徒もそうだ。不安そのもの。親に捨てられた猫……。
「いや、そうじゃない。見捨てては、いないと、思う……」
 そう言ったが、本当は見捨てられたのかもしれない。それは君たちだけじゃなく、僕たちも。しかし、大きな違いがあるのは分かっている。僕らはバイトだ。先月分の給料と、講習の特別給与が無いだけだ。しかし、君たちは違う。勉強するために、教わるために、ここを頼りにして来ている。ここが無くなると言うことは頼るところを失うと言うことだ。
「まずは、今日は帰ろう。何も出来ない。ほら、ホワイトボードも、無くなっちゃった」
「明日は?」
「明日、か」
 どうなるのか、分からない。でも、授業が出来ないことは確かで、みんなに来てもらうよりも、家にいてもらった方がいいだろう。