昭和42年生まれ元司法浪人無職童貞職歴無しの赤裸々ブログ -3ページ目

昭和42年生まれ元司法浪人無職童貞職歴無しの赤裸々ブログ

昭和42年生まれの元司法浪人生です。
日々の出来事や過去の来歴を隠すことなく赤裸々に語ります。

先週成人式があったようで、外には晴れ着姿の20歳の女性があちこち見受けられた。


自分は浪人中だったので成人式には出なかった。

なので、成人式がどういうものかはさっぱりわからない。


成人式に出るということは少なくとも20歳か19歳である。

女の子ではない、女性である。


ふと自分が彼女たちを見ると、「ああ、大人だなあ」と感じてしまう。

不思議と成人の男性にはまったくそういう感情はわかない。


女性に対してのみである。


なぜそういう感情が湧くのか?

おそらく、自分の中で知りうる女子は中学3年生の女子である。

共学だった中学校3年の時の女子が自分の知りうる最も最近の女子なのである。


だから、それ以上の女子、たとえば高校3年生とか見ても、「ああ、大人だなあ」と思ってしまう。


かたや32,3歳の女性を見ると、大変失礼だが、女性とは全く見れなくなってしまう。


浜崎あゆみは自分より一回り近く下だが、自分からすれば、かなり年上の女性に見えてしまう。


もうすぐ45になるのに、女性に対しては15、6歳くらいが適齢だとなってしまうとやばい。


自分の年齢でその年頃の娘がいる人もいるのではないだろうか?


それもまた想像できない。

自分には友人もいないので、妻がいるとか、子供がいるとか、そういう感覚がまったく想像がつかない。


自分は、ただ彼女がほしい。

それだけである。




ここ数日間でアクセス数がいきなり増え始めた。

おそらく2chで晒されたのだろうと思ったが、その通りだった。


自分も2chはずっと見続けていた。

やりすぎて試験勉強ができなくなったときもあった。


あるレスを書き込んで次のレスがくるまで待ち遠しくなり、結局朝まで2chした時もある。


ただ、ここに晒されると、自分のような卑屈な人間が悪意のあるコメントを連発し、ときにはブログを炎上させることがある。


なので、コメントは自分の気に入ったコメントしか答えない。


自分はかつて、自分のように女性にもてない人間のブログに入り込み、女子の振りしてコメントを書き、レスが来たら叩くという幼稚なことをやっていた。

そのときは、こういうコメントすれば自分が腹立つと思って、同じことを他人にしていた。

そしてスルーされれば腹が立った。

40代の男がそんなことに腹を立てるのである。


ここは自分の現状を赤裸々に綴っていく。


今、自分が死んでも親以外は悲しまないだろう。

その親がいなくなれば、誰も思い返すことはしないだろう。


だからブログで自分の生きざまを描き続けることにする。




自分は相当な変態性欲の持ち主だと思う。


高校生になるまで自分はオナニーすらしたことない、まじめな少年だった。


しかし、男子校に入り、まったく女性との触れ合いがなくなると、自分が唯一女性について知ることができるのは、いわゆる恋愛ハウツー本か、エロ本だけだった。


恋愛ハウツー本はよく読んだが、女性とまったく触れ合ったことがないと、ハウツーを読んでも、さっぱりわからず、結局、そこに出てくる女子高生を見てエロい想像をすることしかなかった。


どこかのコピペにあったが、当時高校生だった自分はセックスをする女性なんて一部のいまでいうヤンキー女だけだと思い込んでいた。


普通の女子はそんなことするはずがないと思い込んでいた。


4浪し、大学入学する時までそう思い込んでいた。


しかし、実態は違った。

大学入学時、23歳のほとんどの女性は恋愛経験を済ませて、その次の段階を考えていることを知った。


ましてや、高校生でセックスすることも、まったく不思議ではないことも知った。

これが自分に予想以上の大きなショックを与えた。


だから、今も女子高生の凌辱モノは大好きだが、高校生同士がセックスするマンガ等はまったく受け付けない。

自分の人生を否定されたような気分になるからだ。

自分が人生をかけて追い求めていた女子高生との恋愛をいとも簡単に実現しているマンガの主人公を見ると、44歳のいまでさえ、ひどく落胆してしまう。


自分が処女にこだわるのは、単に自分が童貞だというのもあるが、なにより恋愛経験未経験者であることが一番大きい。


恋愛経験がないものが相手にも同じように求める。

自分達で1から築きあげたいのである。


ただ、同世代で恋愛経験未経験者はもういないだろう。

かりにいたとしても、もう高校生のような恋愛はできない。

中年の男女が公園デートというわけにもいくわけがない。


だから女子高生に走るのである。


女子高生とファーストフードや公園で一度でいいから本気のデートしてみたい。


おそらく金を払えばできるかもしれない。


しかし、本気のデートをしてみたいのだ。

これが今の一番の願いである。


今年は外に出て、これを実現したい。


これができれば自分の変態性欲も少しは変わるかもしれない。

大学に通っているとき、なるべく周りの空気に流されないように気を付けた。

時はバブル崩壊が始まりだしたときだが、うちの大学の雰囲気はバブルそのものだった。


といっても、大学の雰囲気を知るほど、他人と会話したり、仲良くしたりしたことはないのだが。


当時は、いつも仏頂面で、一匹狼を演じていた。

そのくせ、周りの目にどういう風に映っていたかをやたら気にした。

自分は4浪していることもあり、自分について、周りからは孤高の人、近寄りがたい人というイメージを持ってもらいたかった。


当時学部の中でとりわけ美形な女子がいた。

ポニーテールの似合う田中好子に少し似た感じの女子だった。


まわりのアホな男どもがいつも彼女の噂をしていた。

自分も彼女のことが少し気になっていたので、本当はその中に加わりたかったが、自分が加わるとアホが伝染ると思い、聞き耳をそばだてるだけにしていた。

もちろん自分は女子との付き合い方が全く分からないため、自分からその女子に積極的に話しかけることなど絶対できなかった。


そして、授業の合間にひょんなことから、その女子の帽子が落ちていたので、後ろから走り寄り自分が拾ってあげたことがあった。


向こうはそのとき、すごくかわいらしい笑顔でお礼を言ってくれた。

が、自分は女子とまともに会話したことがないため、その笑顔に必要以上に照れてしまい、うまく応答できなかった。

結局孤高の人よろしく、フン!という感じでやりすごすだけだった。


そのとき、自分は、うまい返しはできなかったことに後悔した。

しかし、彼女は俺の持つ優しくてニヒルなイメージに興味を持つに違いない、と思い込んだ。

もしかすると、彼女をモノにできるかもしれないとまで思った。

普段は凌辱オナニーに耽る俺も、そのときだけは彼女をその対象としなかった。

初恋というほどのものでもないが、たった一瞬の出来事でそのくらい彼女は特別な存在になりかけた。

そして、彼女の中で自分は特別な存在になっているとも思い込んだ。


しかし、数週間後に事件は起きた。


通学途中、学校に行く電車の中で、隣の車両で彼女を見かけた。

俺は胸を弾ませ、用もないのに、隣の車両まで行き、彼女にわかるようにさりげなく前を通った。


そして、彼女の前を通った時、渾身の力をふりしぼって言った。


「おはよう」


しかし、彼女は俺を見てきょとんとした。

そして、

「え?」

と言われた。


そして、さらに渾身の力を込めてもう一度言った。

そしたら、初めて彼女が

「おはようございます」

と言った。


しかし、そのトーンは明らかに向こうは俺のことを覚えていなかった。

そんな「え?」と「おはようございます」だった。


そのとき、俺の中で何かが崩れた。

彼女は自分のことを覚えていない。


好きの反対は嫌いではなく、無関心だと、マザーテレサが言ったことを思い出した。


そうか、彼女にとって俺はまったくの無関心なんだ。

俺は少なくとも彼女に相当な関心を持ったが、彼女はまったく俺に対して、帽子を拾った俺に対して、関心を持たなかったのである。

嫌いならまだわかる。

知らないのだ。無関心なのだ。


屈辱だった。


そんな事件があった後、彼女が早稲田のサークルに所属していたことを風のうわさで知った。

このうわさを聞いた後、さらに司法試験の勉強にのめりこんでいくようになった。


彼女が早稲田のサークルにいるというだけで、自分の中では彼女は高学歴、当時で言う三高の女なんだと思い込み、それなら俺は弁護士になってやると意気込んで勉強を始めた。


そういう不純な動機から始めれば、うまくいかないのは目に見えていた。

しかし、当時の自分にはまったく見えていなかった。


そして、彼女もまた俺の凌辱オナニーの餌食となった。

あと3か月で45になる。

自分は早生まれなので、同窓はほとんど45歳になっていることだろう。


歳を重ねるたびに1年間を振り返っていかに無駄な時間を過ごしてきたか、いつも痛感する。


この痛感は20代のころからあった。

もう20代でなくなるときのショック、もう30代でいられなくなるときのショック。


20代、30代で未婚ならやり直しがきくかもしれない。


しかし、40代で、しかも半分過ぎていて恋愛未経験では結婚は相当難しいだろう。

そういう意味で45を迎える今年はその痛感はひとしおである。

普通に考えたらもう無理だろうという絶望感に苛まれる。


でも、心のどこかで何とかなるだろうという根拠のない自信もある。

これが、自分を行動させなかった悪い自身なのだが。


たしかに、司法試験に合格し、弁護士として大成し、それこそ知事や市長にもなれれば可能性はあるかもしれない。


しかし、現在は司法試験の勉強などしておらず、もっぱらネットゲームを部屋にこもって昼夜しているだけである。


試験勉強していた時期も、部屋にこもって勉強かネットでズリネタを探す日々だったから、ほとんど変わりないが。


今年の目標は外に出ること、女性に積極的になること。この2つを実行しようと思う。


家で引きこもっていただけでは出会いなど、ありえないのである。


せめて親が元気なうちに、彼女でも紹介したいと思っている。

自分は中学を卒業して以来、何かにドキドキしたり、ワクワクしたりすることがない。

2ちゃん用語でいえばwktk感が全くなくなった。


中学以来このような感情はなくなってしまった。

でも夢の中では違う。

過去にwktkしてた頃の夢をよく見る。


いまさっき目が覚めたので夢の内容を綴る。


舞台は中学校3年。

そういえば夢の舞台はほとんど中3で、中2や中1だったこともない。


さっきの夢は中3のときの担任に叱られる夢だった。

このときの担任は多分30くらいだと思うから自分よりはるかに年下だとおもう。


10人くらいで近くの公園でみんなで泥遊びみたいなことをして遊んでいるなか、自分は鬼ごっこをしていた。

ただ、実は授業中だったらしく、そのため、10人くらいが始業時間に遅れた。

待ちくたびれた担任にいきなり叱られ正座するよう言われた。

女子を含め皆がしゅんとしている中で、自分だけ担任に反発する。

「今は授業中ではない!」みたいな反発だったと思う。


周りにちら見されながら自分だけ頑張ったけど、やはり授業中なので怒られ、結局正座した。


この時は正座させられても良い思い出だ。


あれから30年経過しても同じような夢をパターンを少し変えて何度も何度も何百回も繰り返し見る。

夢からさめ、起きた後に鏡に映った自分の顔を見るのが本当につらい。


夢占いも何度かしたことがあるが、どれももうすでに分かっていることを改めて念押しされただけだった。


いまの生活に充実感を見いだせないから、このような夢ばかりを見る、と。


でも今からどうやって充実感を取り戻すのだろうか。


もし、仕事を始めてもこの年からやれる仕事なぞ、充実感より絶望感を味わうものばかりだろう。


余暇だって結局今と同じ2chばかりやって過ごすに違いない。


なので、もう後の人生もこの夢をずっと見続けるのだろう。


ほんとうにつらい。

大学在学中はひたすら司法試験予備校の通信講座をテープで聞いて勉強するというスタイルだった。


予備校の講師は自前のテキストを絶賛し、基本書を馬鹿にするような発言をたびたびしていた。


予備校信者となった自分はこの言葉を鵜呑みにし、予備校テキストのみを信用するようになった。

六法すらあまり開かなかった。


学校の授業は意味がないと勝手に決めつけ、授業も仮面浪人の時と同じくほとんど行かなかった。


俺は高尚な司法試験の勉強をしているのだ。

馬鹿どもが集まる学校とは別格なのだ、と慢心していた。


しかし、その慢心が仇となった。


まさかの留年である。


民法の勉強をあれだけしたのだがら、民法を落とすわけがないとタカをくくったのが馬鹿であった。



司法試験の試験科目でも要である民法を落としたのである。



学校の試験は司法試験とは全然違うことを認識していなかった。

もっとも、そもそも司法試験の勉強をしてても、大して実力がついていなかった。

それなのに、実力がついていると勝手に思い込んでいたのが原因だった。


1年目の留年の時、親に対しては申し訳ないと思ったが、自分のなかではその事実を過小評価していた。

俺を落とすなんて馬鹿な教授がいるもんだ、と専ら教授を馬鹿にしていた。


ただ、一点だけつらかったのが、ほかに同じ留年した学生を見ると、みな一様にチャラチャラしてるやつばかりであることだった。

自分はこんなに勉強しているにもかかわらず留年したのに、このチャラチャラしたクズ共はきっと女と遊びまくって留年したに違いない、こんなやつらと同じ扱いなのか、と思い塞ぎ込んだ。


このように留年した事実をあたかも不可抗力の事故にあったかのように装い、自分とは無関係なことと思い込んでいた。


このなんとかなるだろうという発想は、自分の慢心と、現実から目を背けながら生きる生き方から生まれたものである。


そして、今もなお、この発想は自分の中に強く根付いている。


44歳もそろそろ終わりに近づき四捨五入すれば50代に差し掛かろうとしている。

仕事もせず、家で女子高生との妄想ばかりをしながら、ネトゲやネットしている。


親が元気なうちはいいが、亡くなった後を考えるとぞっとする。


しかし、なんとかなるだろうという発想がどこかにあって、それが次の行動へと踏み出せないようにしている。


本当にどうしようもない。

大学に入ったものの、自分の理想は満たされず、悶々とする毎日を送っていることには変わりなかった。

キャンパスを闊歩する女子大生を傍目で凝視しつつも、興味なさそうなフリをしながらコソコソ隅を歩いていた。


入学当時黒髪で地味な恰好をしていた女子が、2年3年となると、女子大生として女のフェロモンを放っていた。


そして、相変わらず自分は一人ぼっちだった。


今は非モテサークルやぼっちなど、モテないことも市民権を得つつあるが、当時の非モテやぼっちは本当にすることがなかった。


自分はひたすら勉強に勤しんだが、やはり仙人ではない以上、勉強中に性欲が頭を支配して全く手がつかないことがある。


そういう時は、よく官能小説を愛読した。


結城彩雨や軍十四郎などを愛読した。


出てくるヒロインはみな貞淑な人妻や男を知らない女学生がほとんどで、主人公の魔の手に嵌るという内容だ。


当時衝撃だったのは彼らの凌辱描写だ。


浣腸が必ずといっていいほどでてくるのだが、浣腸もただの浣腸ではなく、滋養浣腸や空気浣腸など、その狂気性が群を抜いていた。


自分は女性と付き合ったことがないので、正直女性器が全く想像できなかったため、もっぱらアナルを責める小説が好きだった。

これは未だに同じである。

アナルをいじられればどういう気持ちになるか、男でも多少理解できるし、何より、アナルは触られるだけでも嫌がる女性が多いため、その顔を想像するのがたまらないのだ。


こういう時にオカズにするのが、大学のキャンパスを闊歩する女子大生だ。


あの高飛車な女を浣腸してひいひい言わせたい。

縛り付けて野外で脱糞させたいと、どんどん妄想に拍車がかかっていた。


この性欲は年をとったら落ち着くのかと思いきや、現在はその時からは何十倍も変態的になっている。


醜い性獣である。

高校時代男子校で彼女ができなかったことを悔み悔んだ挙句、4浪し、いわゆるマーチ法学部に入学した。

ただでさえ年がいってて周囲から浮いているのに、仮面浪人を決意して、さらに周囲から遠ざかっていった。


このとき自分には友達と呼べる人間はほとんどいなかった。

だから、自分の馬鹿げた選択に対し、誰も忠告しなかった。


今みたいにネットがあれば、当時の環境をネットで相談すれば、皆猛反対するだろう。

一発逆転なんてできるわけがない。

たとえ合格しても高校生の彼女などできない。

粛々と学校を卒業し、就職活動をすべきだ。

と。


まだ若かった当時の自分はそんなことはこれっぽっちも浮かばず、ただひたすら「理想の彼女を作るため」だけにひたすら難関資格を目指していった。


司法試験の勉強は主に、テープ学習だった。

授業を録音したテープをテープレコーダーに早回しして聞くという、当時にしては画期的な勉強方法だった。


自分はこの勉強方法に傾倒し、毎日11時間くらい、耳が遠くなるくらいひたすら聞きまくった。


授業1コマが80~90分で2コマで1回だったが、一日2回分きいてた。

早回しで聞いても、講師の話す言葉をほとんどテキストにメモしていったため、1回の授業に4~5時間費やした。


とてもつらい作業だったが、充実していた。


法律の基礎が自然と身についた気がした。


この「気がした」というのが、自分の失敗だったことを悟るのは、ここから5年がたった後のことだ。

司法試験を目指すようになったのは、失われた自分の5年間を取り戻すには文系資格の最高峰である司法試験に合格するしかないと思ったからだった。


ただ、法曹界を目指すに値する信念があったわけでもなく、突き詰めれば「女にもてたい」という不純な動機によるものであることには変わりなかった。


当時の心境を今思えば、高校時代に彼女ができていればこんな苦労しなくて済んだのだろう。

一般と同程度の幸せで十分満足したであろう。


しかし、彼女ができなかったことを取り戻そうとして足掻いたが何もできず、結局変態性欲に走ってしまった。

さらにそれが拍車をかけて今度は人生一発逆転を狙い東大を目指すようになってから、完全に歯車がくるってしまった。


この時の自分は現状のすべての不満を高校選びを間違えたことに収斂させていた。


そして大手予備校に通い司法試験に合格することを考えたが、しかし、そうはしなかった。


宅浪を長く続けていたせいか、大学の授業に出席して講義を聴くことが全く肌に合わず、講義形式の授業にはついていけないとその時悟っていた。


そのため、当時流行り始めたカセット通信を選択し、通信講座で勉強を始めた。


大学2年、23歳の秋である。