武州松山城(埼玉県吉見町)を巡る永禄年間の後北条氏との攻防は、太田資正(三楽斎)の生涯の中でも最大の激戦でした。

上杉謙信の第一次越山・関東入りの際、要害として名高い松山城を北条氏から奪ったのが、太田資正でした。
資正にとって松山城は、義父・難波田善銀から継承した城。南方勢力の北進を食い止めるために存在するかのようなこの要害を、資正は、北条氏を南に封じ込めるための楔(くさび)としました。
対する北条氏も、、謙信帰国後の勢力回復の大運動の中で、松山城を最重視します。総力を傾けて奪還を試みたのです。
こうして繰り広げられた連戦が、永禄年間の武州松山城の攻防でした。

その苛烈さ故に、「武州大乱」(氷川女體神社)と言われたこの攻防は、最後は、北条氏が武田信玄の力を借りることで決着します。
選りすぐりの精鋭を詰めさせ、膨大な兵糧と最新兵器・火縄銃の整備によってこの城を守ろうとした資正でしたが、北条・武田合計数万の大軍は、圧倒的な量の力で、これをねじ伏せたのです。
松山城は陥落し、太田資正の武蔵国制圧の夢は潰えました。

しかし、太田資正も後世に名の残る名将です。武田信玄の参戦によって兵力の差が十倍となるまでは、伝令犬を用いて松山城との連携を密に取り、北条氏と互角に渡り合い、数々の攻め手を撃退しています。

松山城を守る太田資正と攻める北条氏の力が拮抗していたのは、永禄四年九月から翌五年秋までの一年間(武田信玄の参戦は永禄五年十一月)。

この武州松山城を巡る太田資正と北条氏の攻防は、地域に与えた影響が甚大であり、それ故、同時代の証言とも言える記録が残されています。
利根川宇平氏が「川島町史 通史」において引用した岩殿山正法寺の僧侶・栄俊の覚書もその一つ。非常に興味深いので、紹介します。


末代のおぼえに書也・・・(中略)・・・松山之城堅固ニ太田持也、然所ニ氏康、伊豆相模ヲタナビキ、勝沼エ押寄セ、三田弾正城ヲ取リ、松山エ押シ寄セ、百日小代高坂ニ陣ヲ取、松山城、岩付ヨリ太田美濃守堅固ニ持チケレバ、為不叶、武州ノ大伽藍、岩殿を始とシテ悉ク放火、其時、岩殿七堂モ放火也。武州廿四郡之内、十五郡悉ク、人家七年絶エル也


内容は、
・太田資正(美濃守)は松山城を堅守していた。
・そこへ北条氏が武蔵国の領地奪還に現れ、まずは勝沼(青梅市)の三田氏を滅ぼし、ついに松山城にも物押し寄せてきた。
・氏康の松山城攻めのための在陣は百日間にも及んだ。
・しかし太田資正は、岩付城から指揮を執り、松山城を守り抜き、北条氏の松山城奪還を阻止した。
・北条氏が本陣を置いた岩殿山付近は放火され、有名な岩殿七堂もこの時焼失した。
・武蔵国は全24郡から成るが、その内15郡が戦乱に巻き込まれ、7年間も人家が絶えた。
というところでしょうか。

この短い引用部だけでも、太田資正が松山城を堅守した(「堅固ニ持」)という表現が二回も登場します。
何があろうと松山城を守り抜こうとした資正の決意と戦いぶりは、付近の僧侶にも十分伝わるものだったのでしょう。

資正が、東の岩付城(岩槻城)に鎮座しながら、松山城防衛の指揮を執ったと読める下りは興味深いですね。
有名な犬の入れ替え(伝令犬を使って岩付城と松山城の情報連携を保ち、即座に後詰め(籠城への援軍)に向かったとの逸話)は、この時のことであったと言われています。整合する部分があり、納得がいきます。

ところで、北条氏の本陣が置かれた岩殿山の七堂を放火して焼いたのは、資正側でしょうか。
北条氏側が、直前に岩付領の氷川神社や氷川女體神社を放火したことを考えると、寺社仏閣に火を放つことは戦国時代の戦術として珍しいものではありません。しかし、この松山城攻防の後半において、北条氏が城下の商人らの掌握に成功している様子があることを考えると、資正の手段を選ば戦いぶりは、あるいは松山の民の支持を失わせるものだったの可能性があります。
民の把握において、資正は北条氏に後れを取ったとも言えるかもしれません。

【追記 2015.4.29】
岩殿山正法寺を焼いたのは氏康だとするのが、一般的な解釈のようです。
【追記ここまで】

もっとも、松山城奪還以降の資正に、領国経営を行う暇がなく、ただひたすら合戦は繰り返すしかなかった事情を考えると、少し厳しすじる評かもしれませんが。

人家が7年間も絶えたとは、やや大袈裟な気もしますが、上杉謙信の第一次越山(永禄三年~四年)から、太田資正が岩付城奪還を諦めて常陸国片野城に入る(永禄九年)まで七年間は太田対北条の戦いが続いたことを踏まえれば、少なくとも期間としては正しいのかもしれません。


いずれにせよ、岩殿山正法寺の僧侶のこの覚書は、永禄四年から五年にかけて、わずか一年とは言え、太田資正が北条氏との総力戦を行い、ひとまずは互角に戦い抜いたことを裏付ける貴重な資料です。

陣を敷き、腰を据えて百日間にも渡る松山城攻撃を仕掛けた北条勢を、岩付勢のみで跳ね返した資正。

知勇を尽くして戦った資正の姿が、浮かび上がってくるようです。


※ ※ ※

岩殿山正法寺は、坂東札所十番。岩殿観音が有名だそうです。武田信玄が松山城包囲に参加した時は、武田勢の本陣がここに置かれたとか。

訪ねてみたい場所の一つです。
(先日松山城を訪ねた際は、岩殿山正法寺の重要性に気づいておらず、素通りしていました。残念!)

【追記】
岩殿山正法寺の位置を地形図上で確認しました。
松山城との距離は、5~6キロメートルほどでしょうか。想像していたよりも、離れています。

岩殿山正法寺に置かれた北条氏の本陣は、松山城包囲戦の本陣というよりは、松山城とのある程度距離を取って対峙する際の本陣だと見た方が良さそうです。

容易には北条勢を松山城に近づけなかった太田資正勢の初期の勢いをここから感じます。

また、地形的には岩殿山正法寺は、秩父丘陵の東端に位置しています。武蔵南部から西側の山づたいに勢力回復を目論んだ当時の北条氏の戦略も、本陣の置かれたこの寺の位置から透けて見えますね。

岩殿山正法寺と武州松山城

(武州松山城と岩殿山正法寺)

松山城を巡る太田資正と北条氏康の攻防を、もう少し妄想してみました。
太田資正は松山城攻防戦において北条氏康とどう戦ったのか

【関連】
武州松山城を巡る太田資正と北条氏の戦いについては、史料確認・考察を重ねながら、何度もエントリーを重ねました。
(新しい順)
太田資正の息子が語る松山城合戦
軍記物が描く松山城合戦
謙信、松山城合戦前後の動き
太田資正の失敗⑤ 松山城の陥落
太田資正の失敗④ 松山城攻防戦
太田資正の失敗③ 永禄五年の松山城合戦に至る経緯
太田資正の失敗② 永禄四年の松山城合戦
史料比較:永禄年間の太田資正の松山城奪還
【妄想】太田資正は松山城攻防戦において北条氏康とどう戦ったのか
武州松山城を歩く
太田資正と武州松山城の攻防