さいたま市岩槻(岩付)の戦国領主・太田資正(三楽斎)家臣たちに関する備忘録
その12.高麗豊後守
~岩付追放後も資正に臣下した日進領主~


・永禄八年、前年に岩付を追放され牢人状態だった資正(既に太田道誉を名乗る)から、加村の領地安堵状を発給される。
永禄八年六月二十一日の太田道誉書状から)

加村は、今日のさいたま市西区日進町付近。

・この書状から、
①追放後も資正によって遠隔地から岩付領の支配が引続き行われていたことが示されている、
②父資正を追放した太田氏資の内政の不備や家臣の未掌握が端的に示される、
等の解釈が可能。
(新井浩文「永禄十二年の越相一和に関する一考察」より)

【加村の位置】

高麗豊後守の所領・加村



・永禄十二年には、太田道誉(資正)の次男・梶原政景から所領安堵状を発給されている。
永禄十二年六月二十三日の梶原政景書状から)

・永禄十二年の安堵状は、資正(道誉)・政景親子の岩付復帰も取り沙汰された越相一和(越相同盟)の交渉と連動型したものである可能性が指摘されている。
(新井浩文「永禄十二年の越相一和に関する一考察」)


高麗豊後守のイメージ
太田資正が息子・氏資によって、岩付を追放されると、大半の家臣達が、氏資への服属を表明。
例えば、春日一族、恒岡越後守河目越前守親子広沢尾張守信秀道祖土図書助内田兵部丞・孫四郎親子など。
太田下野守小宮山弾正左衛門らのように、後に再び資正配下に復帰したものの最初は氏資に仕えた家臣も加えるならば、太田氏家臣の大多数は氏資に従ったと言える)

そうした中、早い段階から岩付城の氏資ではなく、放浪中の資正・政景親子に従う姿勢を見せたのは(一次史料で確認される限りは)資正の義弟・三戸駿河守とこの高麗豊後守、そして父と兄と訣別して河目四郎左衛門くらいか。
三戸駿河守が資正の実妹の夫という親族の立場であったことや、河目四郎左衛門が家督を継ぐ権利の無い次男として新天地を求める覚悟で家を棄てて資正・政景に付いて行ったことと比較すると、高麗豊後守の特殊性が際立つ。

高麗豊後守は、資正の親族でもない立場で、また一族の非正統派でも無い立場で、資正・政景親子側に掛けた点が、特徴的と言える。

周囲が次々氏資に臣下していく中で、高麗豊後守が放浪の資正に従った理由は何だったのか?

資正に世話になり、岩付太田氏ではなく資正個人に心酔していたのか。
あるいは、資正による岩付城奪還の可能性に掛け、一種の“逆張り投資”をしたのか。

なお、永禄八年と永禄十二年の二通の安堵状の間、高麗豊後守がどこにいたのかは不明。
可能性としては、
・岩付領に残り、形の上では氏資に臣下しつつ、永禄十二年に資正の岩付復帰の可能性が見えた時点で再び通交を始めたのか。
・資正を追って供に片野に流れ、永禄十二年に資正の岩付復帰の可能性が見えた時点で、謂わば儀式的に岩付領内の土地の安堵が行われたのか。
の両方が考えられるが、決め手がな無い(私が知らないだけかもしれませんが)。


印象としては前者。
やはり、資正個人に深く心酔した家臣だったと考えたくなるところ。

合戦での活躍に関する記録が残されていないのが、残念である。


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