さいたま市岩槻(岩付)の戦国領主・太田資正(三楽斎)家臣たちに関する備忘録
その13.小池長門守
~北条氏康の命で鴻巣を開拓した「鴻巣七騎」筆頭~


・天文二十年、北条氏康から鴻巣の市宿新田開発を命ぜられる。
天文二十年九月の北条氏康書状より)

・江戸中期編纂の『新編武蔵風土記稿』では、岩付城下の市宿にいたところ、北条氏康から鴻巣開拓を命ぜられて鴻巣市宿新田に赴いたとしている。また、古くからの鴻巣の代表的土豪「鴻巣七騎」の筆頭とも。
(『新編武蔵風土記稿』より)

【鴻巣市宿新田の位置】

鴻巣市宿新田

・長尾景虎(上杉謙信)の第1回越山の際に、資正とともに景虎の厩橋陣に参陣。長尾景虎のもとに参じた関東の武将の目録である『関東幕注文』(永禄四年)において、「岩付衆」の一人「小池長門守」として記される。 (←他の家臣と混同して書いてしまいました。この誤解に基づく以降の記述も含め、削除(見え消し)します(2016/1/7))

・徳川家康が関東に入封した後、文禄二年に、小池隼人助が、家康の鷹狩の際の宿泊所として砦跡に御殿を建造した。
(『新編武蔵風土記稿』から(←要確認))


<小池長門守のイメージ>
鴻巣の旧くからの有力土豪。
・『新編武蔵風土記稿』は、岩付城下の市宿から北条氏康の命で鴻巣二年に赴いたとするが、これは鴻巣市宿と岩付市宿を混同したことによる誤りではないか。鎌倉時代まで遡る「鴻巣七騎」の筆頭が、戦国時代に岩付から鴻巣に移ったとするのは、不合理。
・また、一次史料である北条氏康書状は、「市宿新田 小池長門守屋敷」宛とのみ記され、小池長門守が岩付に居たことを示唆する記述はない。
・北条氏康は、 天文十七年以降に太田資正が北条氏服属の岩付城主となってからは、その領国経営には手出しをしていない。岩付城下の市宿の住民に、氏康が遠地・鴻巣の開拓を命じたことは考えにくい。

上記の考え方を採れば、鴻巣という地は、
・天文二十年頃のまだ岩付城主成り立ての太田資正の影響下になく、
・その後、資正が岩付領統治を充実させていく中で影響下に入った。
と考えることができる。

小池長門守は、長尾景虎(上杉謙信)の関東攻めの本陣に資正とともに参陣したが、その後の上杉対北条の合戦で活躍した形跡が見えない。
小池家保管の文書がいくつか今日まで残されていることを考えれば、合戦での武功への感状が残されていない=初めから無かった、と考えても良いのではないか。

赤浜原合戦(永禄五年)で武功を競った道祖土図書助内田孫四郎等とは、姿勢が異なっていたのではないだろうか。

近隣の有力土豪である浅羽下総守は、同じく永禄四年の厩橋の長尾景虎陣に参陣したものの、早期に北条側に付き、北条氏の武蔵攻めの案内役をしたことが伝えられている。
小池長門守も、同様の振る舞いをした可能性がある。

逆に、太田資正としては、長尾景虎の厩橋陣に無理矢理にでも小池長門守を連れ出すことで、高名な鴻巣七騎が「反北条」側に付いたことを既成事実化したかったのかもしれない。


小池長門守家は、岩付太田→北条→徳川と上位の権力者が移り変わる中で、前権力者に殉じることもなく、新権力者とうまく折り合っている。

同じ岩付太田氏配下でも、河目越前守広沢尾張守恒岡越後守、内田兵部丞らは、資正→氏資の権力者の移行の中で、新権力者・氏資側に付いて相応の扱いを受けたが、その代わり最後は氏資に殉じて討死する運命を辿っている。

これに比べると(単に記録に残されていないだけかもしれないが)小池長門守家の権力者との接し方は、付かず離れず巧みなものと言えよう。

資正が、北条氏と対決する道を選び、全身全霊を傾けて戦った永禄年間の日々にも、小池長門守はそんな資正の姿を冷ややかに見ていたのかもしれない。来るべき権力者の交替に備えながら。

土地と深く結びつくことで、上位構造としての権力者の変遷にも波風たてずに乗り切った小池長門守家。太田資正の家臣団の中でも、ある種の超然とした存在だった、と言えるかもしれない。

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