石垣島に行ってきました
台風2号が過ぎ去った石垣島に行きました!
フーネに来ました。
石で出来た旧バス停が、今のバス停の横にあります。
なんかこれが好き。
バス停のすぐお隣に石垣観光パイン・マンゴー園さんがあります。
収穫したばかりのパイナップルをその場でカットして下さいます。
すっごい甘い!
マンゴーも頂きたかったのですが、まだ少し早かった様で、マンゴーはこれからなんですって。
ご馳走様でした。
電信屋(デンシンヤー)を見に行きました。
太平洋戦争中の弾痕がいっぱいです。
電信屋記念碑の横に道がありました。
下りて行くと、
すっごい綺麗!
動画貼っちゃお。
とうふの比嘉さんで朝ごはん。
かりゆしセットを頂きました。
温かい豆乳が嬉しいです。
ゆし豆腐が美味しいのはもちろんですが、おからの味噌炒めがサイコー╰(*´︶`*)╯♡
いしがき島 星ノ海プラネタリウムへ。
オープンしたばかりの頃に一度来たきりで、随分と久し振りです。
行ってみたい惑星に、行ってみたい理由を書いた付箋を貼るみたいですね。
んー?地球を眺めたいから月かな。
惑星ではないけれど月ですね!
桃林寺さんに
砲弾を見に行きました。
なんか、、、(ゴミかと思ってしまいました、、、)
サビチ洞へ行きます!
入口からスケール凄い!
入場券売場に居たねこちゃん。
おとなしくて撫でられるの好きなんですって。
受付後にサンダルに履き替えます。
ってことは鍾乳洞の中は結構びちゃびゃなんですね。
伊原間にあるサビチ洞は、2億7千年前に海底隆起で出来た日本で唯一海に抜ける鍾乳洞なんですって。
突然の泡盛。
工芸品が飾ってあるって書いてあったけど、これかしら?
神柱。
そう云えば、サビチ鍾乳洞にはパワースポットがあるそうなんですが、この神柱がパワースポットですかね?(違いました)
うわっ、珊瑚の化石です!
えー⁈植物???
鍾乳洞の中でも草って生えるんですね⁈
はじめて見ました。
びっくりです。
鍾乳洞を抜けると伊原間湾が目の前です。
満ちてきていてジャプジャプいってます。
左にパワースポットの岩、右に海岸があるとの事で、まずはパワースポットへ!
、、、なんか行かれなさそう。
穴の中の左側に見えてる岩がパワースポットらしいのですが、水位が70センチ位までなら行かれるそうです。
この日の干潮は確か朝9時30分くらいで、干潮時で水位70センチくらいだったと記憶しています。うろ覚えだけれど。
この時は干潮から既に5時間、諦めて海岸に向かいます。
道のりも、整えられてはいますが、自然も堪能出来て楽しいです。
海岸に到着。
ザパザパしてますね。
お天気良かったらめっちゃ綺麗なんでしょうねー。
また晴れた日に来たいな、晴れの日の干潮時に。
由布島の御嶽とか、旅の終わりに
由布島の御嶽ですが、
御嶽が現在している事、移設などはなく、場所は変わっていない事がわかりましたが、管理していらっしゃる神司の方は別の集落にお住まいで、普段は由布島にはいらっしゃらなくてご連絡がつきませんので、雨乞いの御嶽であるかどうかはわからず、御嶽に行く事も叶いませんでした。
管理なさっている方はご高齢で、後継者もいらっしゃらないとの事で、今後こちらの御嶽を拝見できる日がくるかどうかはわかりません。
でもね、由布島の御嶽が今も変わらず同じ場所に在るだけで満足です。
知る事ができて嬉しかったです。
最後の2泊は、新川にあるホテルに宿泊させて頂きました。
16時過ぎに予約をして、17時にチェックインして、受付の方が「昨日までは満室だったのでラッキーでしたよ」って教えてくださって、今回の旅行は本当に行き当たりばったりでしたが、那覇や石垣島の中心部なら予約はなくてもなんとかなるんだなぁと思ってみたり。
流石に小浜島など、泊まれる場所に限りがある小さな島では致しませんが、先の事が決まっていないのは気軽で楽しかったです。
しかし、直前キャンセルの多い時期だったので、なんとかなったのだと思って、あまり調子に乗らないようにしようと思います。
ホテルグランビューさんの朝ご飯。
夢乃屋さんの豆腐チャンプルー。
ベッセルホテルさんの朝食。
石垣島麺処さんの石垣島ラーメン、さんぴん煮玉子トッピング。
ヤシの木さんのオムライス。
CACAO&Salty MARKETさんのジェラート(チョコレート、ラズベリー、マンゴー)。
全部、全部、楽しかった!!
おしまい。
黒島の御嶽と観光と3
保慶御嶽(フキワン)に向かう途中、黒島研究所さんにお邪魔しました。
入場券はシールになっていて、シールはウミガメさんの卵の大きさ。
3年前と柄は変わっていました。
入口の前では、サメちゃんが気持ち良さそうに泳いでいて、不思議な光景。
ヤラブの木で造られた伝馬船。
インドクジャクさんとニワトリさん。
インドクジャクさんもニワトリさんもキジの仲間なんですって。
ヤシガニさん。
カニではなくヤドカリ。
可愛いちびっこ。
大きくても可愛い。
特に疲れてもないけど、癒されます。可愛い。。。
イラブチャーさんは相変わらず凄い色をしてらっしゃる。
黒島研究所さんを後にして、保慶御嶽(フキワン)に向かう道にも!
飛んで行ってしまった。
保慶御嶽(浮海御嶽)は御嶽の原型がなくなっていて、イビもなくなっているそうなので、見つけられませんでしたが、保慶海岸で振り向き牛さんを見る事にしました。
ノッチがどう見ても牛さんで凄いです。
自然にこの形になったそうですよ。
がっつり移動して東筋村の仲盛御嶽(ナハムリワン)に来ました。
仲盛御嶽は八嶽(ヤーヤマ)のひとつで、黒島首里大屋子が旅立つ時に、航海安全をお妾さんに祈願させる為に創建した旅御嶽だそうですが、琉球国由来記には由来不相知とあります。
南フタの神様が、オモトから南フタに行く途中に休憩した場所に造った御嶽と云うお話もあるみたいです。
神名ミチヤ、御イベ名モモケヲタヘ。
拝殿の前の光がスポットライトみたい。
ちょっとズームしてみました。
鳥居は壊れてしまったので撤去したんですって。
伊古桟橋に行きます。
長〜い。全長354メートル。
そして干潮。
干潮時にも満潮時にも使えるように、354メートルもあるって何処かで聞いたような気がしますが、いつ何処で聞いたか忘れました。
、、、なので違うかも٩( ᐛ )و
桟橋を歩いてみます。
左手に港が見える。
ここからは見えませんが、あっちの方に阿名泊御嶽(アナドマリワン、マナドマリワン)と阿名泊展望台があります。
左側に阿名泊に続く遊歩道があるので、行ってみます。
3年前に集落の方の道から、何度か阿名泊に行ってみようとしたのですが、拒絶を感じたので行きませんでした。
工藤、全く霊感的なものないし気の所為だったかな?とか、拒絶してたのは北神山御嶽(ニシハメマワン、ニシカメマワン)とか、途中の道とかで実は阿名泊は平気かも?とか考えていました。
単に阿名泊に行きたいし、諦めつかないので、試しにこっち側から行ってみるのです!
遊歩道を進むと、途中から海沿いを離れて、黒島東牧場の入口に突き当たります。(途中からは遊歩道と云うより轍でした)
牧場沿いに左に行くと阿名泊、右に行くと北神山御嶽。
阿名泊への道は草いっぱいで、ハブの事が頭を過ります、、、。
先に北神山御嶽に行ってみよう!
牧場沿いを楽しくお散歩。
で、北神山御嶽に着きました。
あれ?3年前みたいな嫌な感じは全くしません。
それどころか、北神山御嶽は美しく心地良く、穏やかなのに、元気を貰えるような楽しい空間。
滞在してると、どんどん嬉しい気持ちになる。何これ?
3年前はなんだったのでしょう?
教えて、スピリチュアルとかオカルトに詳しい方!
北神山御嶽も東筋村にある八嶽のひとつです。
西神山御嶽と書く事もあるそうですが、正しくは北神山御嶽。
[北]は八重山方言で[ニシィ]や[ニシ]と言いますので、琉球王府時代のお役人さんが間違えしまって、琉球国由来記や御嶽の拝殿の篇額には西神山御嶽とあるのではないかとの事です。
北神山御嶽の由来はですね、昔、船道屋にカマラ加那、カラジボウ、キラチマーチ(カキラチマーチ?)の兄弟が居て、兄カマラ加那と弟カラジボウはお船の操縦が上手で、公用船の船員になって功名を立てました。
で、子孫の船道樽は航海王って呼ばれるくらい航海が上手で、親鷲って云う八重山最高の公用船の常船員に選ばれて、八重山-首里間を37回も航海して無事帰還した天才だったそうです。
樽の妹さんは神高い人で、お兄さんが航海中には、山の中でお兄さんの航海が無事な様にお祈りしていて、願いがいつも叶ってお兄さんが無事帰還するので、村人達の間で、妹さんがお祈りしている場所は神様がいる霊場だよねーってなって、拝殿を創建して村中の旅御嶽にしたのが北神山御嶽なんですって。
トゥニムトゥ(宗家)は兄カマラ加那の系統の船道家。
ヤマシンカ(氏子)は船道家と、弟カラジボウの系統の神山家、妹キラチマーチの系統の東舟道家と、それぞれの分家の子孫の方々で構成されていらっしゃるそうです。
神名は真盛大嶽、御イベ名は五知イラビ或いは玉知イラヒ。
気になったので、集落の近くまで進んでみました。
なんかの石積み。
ここも以前はあまり長居したくない感じだったのに、なんともないー、不思議ー。
やっぱり気の所為だったのかしら?
それとも、その時は拒絶されていたのかしら?
ハブに遭遇しないように、慎重にやって来ました、阿名泊!
鳥居壊れちゃったみたいですね。
阿名泊展望台に向かうと、
石垣島に正対してる、なんだか不思議な感じ。
於茂登(オモト)から神様がいらしたってお話しがわかる気がします。
水底電話ケーブル。
思っていたより心許ない(;´д`)
本来はこんな感じに埋まっているのが、出てきちゃったのかしら?
阿名泊御嶽(アナドマリワン、マナドマリワン)は東筋村にある、航海安全を祈ったり、航海の無事を感謝する御嶽。
八嶽ではないので琉球国由来記にも記載がなく、由来らしき由来は知る事が出来ませんでしたが、もしかしたら阿名泊御嶽の由来かなってお話しがありました。
昔、竹富島の仲筋(ナージ)村に島仲(シマナカ)と粟礼志(アハレシ)と云う兄妹が居て、島仲が7歳、粟礼志が5歳の時に海岸で遊んでいると、三日月のような船形が浮かんできて、2人に近づいてきました。
島仲は神様がくれた船形だと思って、山に行って木を切って、船形を真似て造船しました。スーパー7歳児。
島仲にご飯を持って来た粟礼志に神様が「粟礼志のお兄ちゃんが造ったお舟は丈夫だから楽に航海できるよ、このお舟に五包七包(ごほうななほう)ってお名前をあげるね」って言いました。
島仲が五包七包を海に浮かべると、大波がきて五包七包は流れて行ってしまいました。
五包七包は漂流して、黒島に漂着しました。
五包七包を見つけた黒島の人達は、五包七包を真似てお舟を造りました。
五包七包に似たお舟で竹富島に来た黒島の人は、その事を島仲に伝えました。
ですので八重山の造船の始めは竹富島で、航海の始めは黒島になります。
なので竹富島と黒島に造船所を設置して造船業を開始したそうです。
黒島での最初の造船所は南フタ村のまき泊でしたが、後に宮里村の船浦に移転して、造船業を盛んにして、船浦御嶽(フノラワン、フノーラワン)を創建しました。
って船浦御嶽の由来なんですが、五包七包が漂着したのが阿名泊かもしれなくて、漂着した場所に阿名泊御嶽を創建した、、とかしないとか。。。
お見送りしてくれるウェルカメさん。
ゼリーみたいな黒島ブルー。
黒島ブルー終わっちゃった。
黒島から離れて行くんですね。
さようなら、黒島。
おしまい。
黒島の御嶽と観光と2
到着。
黒島灯台はですね、港の反対側の何もない所に佇んでる真っ白な姿が好き。
凛としている。
海に続く道を行き、
海側から見上げる黒島灯台、素敵ですよね。
何もない所と云いましたが、灯台のすぐ近くには旧乾震堂があります。
乾震堂は黒島の中央(学校の東側)にお引越ししたので、旧なのですが、
お手入れが行き届いています。
こちらも今も拝所なのかしら?
今回も前回も入っちゃいましたが(・_・;
旧乾震堂を通り過ぎ海に出ると
右手に新城島(アラグスクジマ)が見えました。
下地島に行ってみたいな、、、。
仲盛の遠見台(波照間ムリ)とか、学校の跡地とか一度で良いから行ってみたいです。
(新城島は上地島と下地島にわかれていて、上地島には連れて行って頂いた事があるのですが、下地島には行った事がありません。)
さて、島の西側の道を北に進むと左手に
南風保多御嶽(パイフタワン、ハイフタワン)が唐突に登場!
南風保多御嶽は仲本村にある御嶽で八嶽のひとつです。
五穀豊穣、海の幸、海上安全の神様が祀られているらしいのですが、定かではないんですって。
旧南フタ村(ハイフタ村、パイフタ村、ハイヒタ村)に創建されて、南フタ村の神霊所として祭祀の中心地だったそうです。
オモト山から来た南フタの神様が入った社に建てた御嶽なので、鳥居はオモト山に対座しているんですって。
でも北方系の神様が渡来したと云うお話もあります。
(南フタ村は、黒島に最初に出来た東里(アーサト、アーザトゥ)村が2つに分村して出来た村のひとつです。
後に津波で迎里(ンギストゥ、ンギスト)村が流潰にあって、ンギスト村の仲本家の祖が、迎里村、南フタ村、山崎(ヤマサキ)村、中シトゥ村、イーバラ村、崎原(サキバル)村、仲本(ナカントゥ)村を合併して今の仲本部落の場所に移転したのが仲本村です。)
初代神司(カンツカサ、カミツカサ)は東盛ギサマ、ずっと東盛家の系統で継承なさっています。
現在の南風保多御嶽の大司(ウフツカサ、ウブツカサ、神司の長で神司の中で1番位の高い司の事です。本来は各御嶽事にいらっしゃるそうです)は黒島全体の大司をしているので、八嶽の元(ムトゥ)と云う説があるみたいですよ。
迎里御嶽(ンギストゥワン、ンギシトゥワン、ンギストワン)の大司が島全体の大司だけど、迎里御嶽の大司はご不在なので、南風保多御嶽の大司が島全体の大司とのお話もあるようですが、詳しい事はわからないんですって。
神名は阿宇慶山、御イビ名はエラヒヲタイ大神。
南風保多御嶽から迎里御嶽へ向かう途中に、仲本海岸に寄りました。
タイドプールが!
流石、八重山でトップクラスの美しさ!
石垣島と西表島の大原港を往来するフェリーかしら?
奥の島影は西表島です。
仲本海岸のビーチを振り返って見てみると、干潮なのに、砂浜部分あまりないんだなぁと改めて思いました。
迎里御嶽(ンギストゥワン、ンギシトゥワン、ンギストワン)に着きました。
迎里御嶽は海岸に近い事から航海安全の旅御嶽と考えられていたり、海と関わり航海安全の祈願所だったとの伝承は薄いとも云われていたり、はっきりした事はわからないのですが、豊穣と航海守護の御嶽と伝わっていて、旧迎里村にあり、迎里村の信仰の要だった様です。
迎里村は統廃合で仲本村になりました。
神名は阿宇慶山、御イベ名サイイ主大神(琉球国由来記によると由来不相知との事ですが、サタイ主大神と記されています。琉球国由来記に記された頃の迎里御嶽は黒島村に属していました。)。
トゥニムトゥは大工家で、神司の出自も大工家の系統から、ティジリ(カマンガー、御嶽の管理や司を支える男性)は鳩間家から、迎里御嶽は黒島八嶽の長男とされていて、迎里御嶽の大司は黒島全体の大司となりますが、現在はご不在です。
奥にチラッと見える拝殿は32年前に改装されたので、近代的な姿です。
ここからでは拝見出来ませんが、神棚も新装されたみたいですよ。
余談になりますが、[迎]は[ンギ]と読むんですね。
波照間の岸壁に、んぎしたおーりょーって書いてあったの勘違いではなかったのかも。
御嶽を巡りながら、ちょいちょい海を眺めます。
癒されるー。
夫婦ヤラブを撮りに寄りました。
前回撮ったの酷かったですからね(^_^;)
夫婦ヤラブから眺める黒島ブルー(って云うの?)サイコー!
宮里村の船浦御嶽(フノラワン、フノーラワン)に来ました。
近づけないけれど、宮里海岸側に白い鳥居と
拝殿と思われる建物が見えます。
船浦御嶽は航海安全の御嶽。
黒島での最初の造船所は南フタ村のまき泊でしたが、後に宮里村の船浦に移転して、造船業を盛んにして、船浦御嶽(フノラワン、フノーラワン)を創建したそうです。
神司は上野家の関係の方々でしたが、現在は當山家が引き継がれていらっしゃるそうです。
ティジリは多良間家の子孫の方々。
宮里村には船浦御嶽の他に、美珍御嶽(ビジルワン、ピジリワン)、名石御嶽、八嶽の保慶御嶽(フキワン、浮海御嶽、フカイ御嶽)があるみたいなのですが、見つけられませんでした。
美珍御嶽は、津久登武屋(ツクドゥンヤー)の方と松竹屋の方が夜漁(イザリ)していたら、光ってる丸い石が浮いていたから、持って帰る事にしましたが、途中で石が落ちたので、その場所で信仰したら、豊作だし、お魚もいっぱい獲れるから、御嶽にしたそうです。
信仰なさっていたのは津久登武家(津田家)や松竹家でしたが、宮里村に関係する方々は、現在は黒島にいらっしゃらないらしく詳細は不明です。
現存は御嶽の原型はなく、跡地に石垣が若干残っている様です。
名石御嶽は、栗盛家や栗元家など宮里で[当]のつく名前の方々が信仰なさっていたそうですが、詳細はわかりません。
宮里海岸(ウブドマン)の東側にあり、鳥居は北側にあるそうです。
黒島の方が「僕ここの部落の人間じゃないから、なんの御嶽かわからないけど、あの辺にもひとつ御嶽あるよ」と教えて下さった場所と一致するのですが、見つけられませんでした。残念。
保慶御嶽(フキワン)或いは浮海御嶽は八嶽のひとつです。
琉球国由来記にはフカイ御嶽と記されています。
昔、保慶村の銘里家の祖先の信仰深い方が、新城島の北のニシナーシキと云う珊瑚礁で、網を立ててお魚を捕ろうと待っていたら、60センチメートルくらいの浮いてる石が網にかかったから捨てました。
捨てたのに、その石はまた浮かんできて網にかかったので、霊石だと思ってお家に持って帰ってお庭で信仰しました。
この石を祈願してたら豊作になったから、村で農神として崇めて、神体にして御嶽を創建したんですって。
(霊石はお庭じゃなくて海岸の近くに置いて、豊作になったのではなく大漁で村の皆にお魚を配ったとのお話しもありました)
保慶御嶽は古くから保慶村(1647年の宮古八重山両島絵図帳ではふかい村と書かれています)にありましたが、統廃合により、1713年の琉球国由来記には黒島村とあります。
1723年には一島一村となりましたが、明治初期には宮里、仲本、東筋、伊古、保里、久喜(保慶)の六カ村ありました。保慶村は大正初期に廃村となり、廃村と併行して保慶御嶽は消失してしまい、現在は僅かに拝殿とイビの跡が残っているそうです。が!1980年代までフキ村とマイシト村の御嶽として信仰されていたとのお話もあります。
神名は阿宇慶山、御イビ名はエラヒヲタイ神。
トゥニムトゥは銘里家、神司も代々銘里家で受け継がれていらっしゃいましたが、現在は島にはいらっしゃらないそうです。
あれ?フズマリからロープがなくなっています。
上って良くなったのかしらと喜んだのですが、
あぶないのぼるな!ってありました。
ロープがなくなってしまっただけの様です。
再確認したい事がいくつかあったので、黒島ビジターセンターにも寄りました。
浮き玉のブランコ。
番所跡。
薩摩藩の支配下にあった時の役所がこちらにあって、首里から来たお役人さんが常駐していたんですって。
そして、学校教育発祥の地でもあります。
ここに、からぶき12坪の大川尋常小学校黒島分校が出来たのが1893年の6月です。
裏には爬竜船格納庫。
黒島で造られるお船は伝馬船(でんません)、他の島のようにサバニではないんですって。
こちらが正面かな?
正面ですね。
続く。