まるおの雑記帳  - 加藤薫(日本語・日本文化論)のブログ - -4ページ目

日本世間学会 第28回研究大会で発表して(2) 質疑応答篇

質疑応答の様子を記録した資料が手に入ると思っていたのですが、私の勘違いでした。記録するのは発表部分のみで、質疑応答部分は記録に残さないことにしているとのこと。これは、日本社会の「実態」をめぐっての率直な意見交換をやりやすくするための処置のようです。
というわけで、以下のやりとりは、私の記憶に頼ってのものになります。
(当日参加された方、何かお気づきの点などありましたらご一報いただければ幸いです。)


発表後、次のような質問や意見をいただきました。

① <司会のS氏から>
英語に関してだが、時代をさかのぼった場合、どういうことが言えるだろうか。
世間学ではヨーロッパにおいては12世紀ころに「世間」から「社会」への変化が見られたという見方をするが、それとの関連で何か言えることがあるか。

<まるおの返答>
古い時代の英語については不案内であるが、『日本語に主語はいらない』で知られる金谷 武洋氏の『英語にも主語はなかった』によると、世間学の主張との興味深い平行性が英語史にあるようである。
というのは、同書によると、英語において主語が明示されるようになったのは12世紀からで、それまでは主語が示されないことが多々あったというのである。もっとも、そこから、金谷氏は日本語との同質性(非スル的性質)を主張されるがその点には共感できない。発表者としては、12世紀以前においても、現在のスペイン語のように、動詞の語形変化により主語が表わされていた点を重く見たい。
とは言え、英語史において、主語・主体をめぐっての大きな変化が12世紀に起きていることは興味深い。


②<Y氏から>
質問ではなく、コメントをしたい。
(2.4.1の例文(3),(4)で)自発が取り上げられているが、確かに、「~と考えられる」のような自発表現は論文を書くときなどに、それを使うことでごまかすというか、責任逃れを行うということがあると思う。
しかし、自発が常にそのような使われ方をするかと言えばそうではなく、抑えても抑えきれない、湧き出てくる「強い思い」の表現として使われることもあるだろう。「私」が思っているのではなく、「もうひとりの『私』」の思いを表しているというか。
(関連して、万葉集の山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ。栗食めばましてしのばゆ」にも言及)

2.4.2の(7)例についても、(消極的な表現という側面だけではなく)その結婚を運命として、変えようがないものとして受け止める心情、大きな力、大きな背景を感じているという側面もあると思う。

<まるおの返答>
返答を考えていたら次の質問が出されたのでなし。

(現時点でのコメント)
自発表現が「強い思い」を表す場合があるというのは重要な指摘だと思う。いっぽうで、その「強さ」、「大きな力」は、「私」が場所格(「に」格)で表されることから分かるように、能動性、主体性とは別次元のものであることも再確認しておきたい。


② <O氏から>
言っていることに矛盾が感じられる。
2.4では、「自己決定の不在」とか、「『主体性』を秘す私」とか言っているが、いっぽうで、2.6で、「自己中心性」ということが言われている。いったい、「自己」はあるのか、ないのか。
(そもそも、「自己決定の不在」と言うが)自らの経験に照らしても、人と話をする場合、「この人は自分よりも格上なのか格下なのか同等なのか?」といった、その人との上下関係を常に意識し、そうすることで表現を調節している。
(これは、ある意味、自己決定を行っていると言えるのではないか。)
※( )内は、まるおの理解による補足。

<まるおの返答>
自分としては矛盾したことを言っているつもりはない。しかし、「自己中心的性質」という時の「自己」は(欧米式の理解がどうしても入り込んでくるので)、「私」や「自分」と言い換えた方がいいかもしれない。
「私」には二種類あって、(この点については本発表では十分に触れられなかったが)それは、自己密着的な「私」と自己超越的な「私」。
日本語においては、自己超越的な「私」の存在感は薄く、自己密着的な「私」の存在感は強いのだと考えている。
そのように二種類の「私」を考えれば、2.4と2.6は矛盾していることにはならないと考える。2.4でとらえた性質と、2.6でとらえようとした性質が日本語に「同居」していることは間違いのないことだと思っている。
とは言え、この部分が、いまだ未整理・未熟であることは確かだと思う。「自己」等々のタームをきちんととらえなおして整理していきたいと思っている。

なお、インド哲学で言われる『自我』(即自的)と『自己』(対自的)との区別が参考になるのではとの助言がS氏からあった。

(現時点でのコメント)
拙論に限らず、日本語論、日本人論一般において、「自己」とか「私」という言葉をめぐり「混乱」があることは前から気になってはいた。この点をはっきり指摘していただけ、大変勉強になった。

「私」のあり方については大きく二つに分けて考えるべきではと考えている。この問題については、できるだけ近いうちにエントリを立て、整理してみたいと思っている。
あらかじめ、結論的なことを言えば、「私」にはデカルトの言う「私」と、西田幾多郎の言う「私」があるという見通しを持っている。つまり、「主体(主語)としての『私』」と「場所(述語)としての『私』」である。
日本語において存在感が希薄なのは「主体(主語)としての『私』」であり、その存在感が濃厚なのは「場所(述語)としての『私』」のことだと言えるのではないか。
(ちなみに、2.4で取り上げたのが前者の「私」であり、2.6で取り上げたのが後者の「私」である。)


④ <K氏から>
日本語をさかのぼった場合、どのようなことが言えるか?

<まるおの返答>
今回取り上げた現代日本語に認められる性質は、基本的には古代語にも認められるであろう性質だと考えている。しかし、細かい考察は今後の課題である。

今回取り上げた項目で現代語とは明らかに違っているものについて述べておくと ― 、
「あげる」と「くれる」の使い分けについては古代語にはなく、「くれる」が現代語の「あげる」の意味も表わしていた(方言で同様の使われ方がある)ということがある。


なお、休憩時間に、代表幹事のT氏から、語順の同じ蒙古語と比較してみると面白いのではないかとの助言をいただいた。

日本世間学会 第28回研究大会で発表して(1) 発表篇

前エントリで触れたように、11月10日(土)に開催された日本世間学会 第28回研究大会で、

世間学における指摘と日本語のありかた
~主体性と第三者的視点の欠如をめぐって~


と題して発表しました。

その時のハンドアウトを以下に貼ります(字句の微調整を行ったところがあります)。
なお、ハンドアウト中の日本語に関する指摘は、拙ブログにてこれまで述べてきたことと大きく重なるものであることをあらかじめお断りしておきます。

う~ん。もう少し考えを進めるというか、深めたかったのですが、なかなか思うようにはいきませんでした。しかし、拙発表に対して非常に刺激的な突っ込みと言うか助言をもらえました。その突っ込みをめぐり考えていくことで、これから考察を進めていければと思っております。
(世間学における主張と日本語のありかたとの符合性を確認するという第一の目的はほぼ達することがてきたと思っています。)

次エントリでは、質疑応答の紹介をする予定です(現在、当日の録画・録音資料を取り寄せ中。それを確認してからアップの予定です)。


***************************
1.はじめに
日本語のあり方には、世間学における指摘と符合する点が驚くほど多い。具体的に言えば、日本語には、「長幼の序」・「贈与・互酬の関係」・「共通の時間意識」・「自己決定の不在」・「呪術性・神秘性」・「差別性・排他性」等々の「世間」の特徴とされる性質にぴたりと符合すると言っても過言ではない諸々の文法的特徴が認められる。(注1)


2.世間学における指摘に符合する日本語のあり方
以下、世間学における指摘のそれぞれにつき、日本語との関連を見ていきたい。

2.1 「長幼の序」 … 敬語・人称詞のあり方
2.1.1 敬語体系を持つことの意味

日本語では相手との関係性(上下・親疎)を無視して自然な会話を行うことは不可能である。

(1)(目上の人に対して)
??「これはペンだよ。」
(2)(弟・妹・親友等に対して)
??「これはペンです。」/???「これはペンでございます。」
(3)(目上の人に対して)
??「行く?」
(4)(弟・妹・親友等に対して)
??「行きますか?」/???「いらっしゃいますか?」

日本語には「誰に対してもどんなときにも用いうる」中立的な文体がない。このことはつまり、日本語にあっては「文」を作るそのたびごとに「自分と相手との関係性」(上下・親疎)を意識していることを意味する。
(このような観点から早くに敬語を問題にしたのは、森有正『経験と思想』岩波書店、1977年、p.126~131。なお、初出は「出発点 日本人とその経験(b)」『思想』568号(1971年))
ちなみに、日本語のような「敬語」(尊敬語・謙譲語・丁寧語)の体系を持つ言語は、日本語以外では、インドネシアのジャワ語、韓国・朝鮮語くらいであると言われている(ヒンディ語には尊敬語に相当するものはある)。
(J.V.ネウストプニー「世界の敬語 ―敬語は日本語だけのものではない―」(林, 南編『敬語講座8 世界の敬語』明治書院、1974年)、杉戸清樹「世界の敬意表現と日本語」(『国文学 解釈と教材の研究』1988年12月号)
 
なお、日本語には多様な人称詞が存在するが、その使い分けは、敬語と同様、相手との関係性(相手が上か下か、親か疎か)を反映する。

2.1.2「敬語行動」をめぐる日米比較 
単語レベルの「敬語」の体系を持つ言語は確かにごく少数だとしても、単語の組み合わせによる「敬意表現」なら多くの言語に認められるとし、敬語を日本語の特徴と見なすことに否定的な立場もある(城生佰太郎・松崎寛(1995)『日本語「らしさ」の言語学』講談社、p.149~154)。
では、表現レベルで見た場合、敬語をめぐる日本語の個性はなくなるのだろうか?この点を考えるために、「敬語行動」をめぐる日・米比較を行った研究を見ておきたい。

井出祥子他(1986)『日本人とアメリカ人の敬語行動 大学生の場合』(南雲堂)

調査方法
日米の大学生それぞれ約500人を対象に、日常接する様々な相手に、ペンを借りるときにどのような表現を使うかをアンケート調査し、その結果を分析したものである。

表現と人物カテゴリーの丁寧度
井出他(1986)では、日本語と英語それぞれについて約20の表現を考察の対象とする。そして、それらの表現の「丁寧度」の違いを問題にする。「丁寧度」は、「最も改まった時」に用いられるものの丁寧度を5、「もっとも気楽な時」に用いられるものの丁寧度を1とする5段階評価によるアンケート調査によって算出される。また、人物カテゴリーも20設けられ、その丁寧度も同様に算出される。日米双方とも、最も丁寧度が高い人物カテゴリーは「教授」であり、最も丁寧度が低いのは「弟・妹」であった。

分析の結果とそこから分かること
日本語における特に丁寧度の高い表現としては、「お借りしてもよろしいでしょうか」「貸していただけませんか」等があり、英語のほうでは、“May I borrow”“Would you mind if I borrow”等がある。いっぽう、丁寧度が特に低い表現としては、日本語では、「借りるよ」「貸して」「ある」等があり、英語では、“Can I Steal”“Let me borrow”“Gimme”などである。
井出他(1986)によると、「ある表現をどのような相手に使うか」という観点から見た場合、英語にも一定の使い分けが認められる。すなわち、“Can I Steal”“Let me borrow”“Gimme”等の特に丁寧度の低い表現は、アルバイト仲間や親友や兄弟等の気楽な相手にしか使われないし、逆に、“Would you mind if I borrowed”“Do you mind if I borrow”のような表現は、気の張る相手には使われるが、気楽な相手にはふつう使われないという結果が出ている。英語にも家族や親友などにしか使えないぶっきらぼうな表現と、逆に、家族や親友にはふつう使われない持って回ったご丁寧な表現があることが分かる。
しかし、ここから単純に、英語にも日本語と同じように「敬語」が存在するとするのには問題がある。確かに、上に見たような部分だけを見ると、英語も日本語も変わらないのではないかと思いたくなる。しかしながら、英語では、“Could I borrow a pen?”“Can I borrow a pen?”“Can I use a pen?”等の丁寧度中位の表現では、もっとも気の張る相手からもっとも気楽な相手までのすべての相手にほぼ均等に使われるという調査結果が出ていることに留意したい。さらには、もっとも丁寧度が高いとの結果が出ている“May I borrow”であっても、確かに気の張る相手に比較的使われる傾向は認められるものの、いっぽうで、アルバイト仲間や親友や恋人といった「ごく気楽な相手」にも使われているのである。
それに対して、日本語においてもっとも丁寧度が高いとされる「お借りしてもよろしいでしょうか」はアルバイト仲間や親友や恋人といった「ごく気楽な相手」に使われることなど通常の状況では考えられない。

英語の場合、(たとえ命令・依頼文であれ)①相手が誰であっても使える中立的な表現が存在する。 ②丁寧度が非常に高い表現が「ごく気楽な相手」にも使われることが分かる。これらの点から、英語にも「丁寧な表現」はあるとしても、それは、日本語の敬語におけるような「上下・親疎」の「恒久的な人間関係」と固く結びついたものではない、ということが言える。(注2)


2.2 「贈与・互酬の関係」… 授受に関わる表現
日本語の中には、「贈与・互酬の関係」と深く関わるものとして注目すべき表現がある。
英語なら「give」の一語で表現されるところが、日本語では、自分が相手に「与える」ときには「あげる」、いっぽう、相手が自分に「与える」ときには「くれる」となる。

(1) He 【gave】 it to me. (彼は私にそれを【くれた】。)
(2) I 【gave】 it to you. (私は彼にそれを【あげた】。)

このような使い分けは、世界の言語の中で日本語以外には南アフリカのマサイ族の言語くらいにしか認められないと言われている。
(Newman,John(1996)Give:A Cognitive Linguistic Study.Berlin:Mouton de Gruyter.P.26~27)
中国語や韓国語も英語と同様、「自分」が与え手であれ受け手であれ一つの動詞が使われる。中国語「給」、韓国語「주다(チュダ)」。

そして、「あげる・くれる」のもう一つ注目される特徴として、「良いこと」にしか使われないということが挙げられる。つまり、「損害を相手にあげる」という言い方は基本的にはできない。それに対し、英語の「give」、中国語の「給」、韓国語の「주다(チュダ)」などは「悪いこと」にも使われる。
つまり、日本語の「あげる」と「くれる」の使い分けは、自分が恩恵の与え手側なのか受け手側なのかに日本人が強いこだわりを持つことの現われではないかと考えられる。

さらに、授受益の補助動詞「~てあげる」「~てくれる」「~てもらう」の存在も特徴的だ。日本語では、「相手が自分に対して何かよいことをした」場合には、「~てくれる」か「~てもらう」をつけないことには自然な表現にはならない。
「道に迷っていたら、親切な人が駅まで案内した。」は変で、ふつうは「道に迷っていたら、親切な人が駅まで案内してくれた。」などと表現される。
そして、「~てくれる」「~てもらう」のような授受益の補助動詞を持つ言語もやはりかなり限られた言語だけである。山田敏弘(2004)『日本語のベネファクティブ ―「てやる」「てくれる」「てもらう」の文法―』(明治書院)によると、日本語以外に授受の補助動詞を用いて恩恵性を表わすのは、韓国語、ヒンディ語、モンゴル語、カザフ語などかなり限定された言語に限られる(p.341~355)。(注3) この補助動詞の使われ方も、日本人の贈与意識を考える上で注目される。


2.3 「共通の時間意識(自立した個人の不在)」… 敬語・人称詞・終助詞
2.3.1 敬語と人称詞
敬語と多様な人称詞の存在:文体つまり「語り」のスタイルと言語上の自己規定が「相手」のあり方に依存していることを示す。つまり、「個」が自立していないと言える。

2.3.2 終助詞の必須性とバリエーション

(1)「It’s raining.」

これは、この言い切りの形で自然な「文」として十分に成り立つ。そこに何も足す必要はない。それに対して、日本語の

(2)「雨が降っている。」

は、どうだろうか? 独り言であるならばこの言い切りの形で自然な「文」として成り立つだろうが、相手に向っての発言としては不自然だろう。
池上(1989)「日本語のテクストとコミュニケーション」『日本文法小事典』(井上和子編、大修館)は、相手に向っての自然な発言としては、「話し手と聞き手の間の微妙な対人的な関わり」に応じて、

 (3)「雨が降っているよ」「雨が降っているね」「雨が降っているわ」「雨が降っているの」「雨が降っているぞ」「雨が降っているな」「雨が降っているさ」「雨が降っているよね」「雨が降っているわよ」「雨が降っているわね」「雨が降っているわよね」

など、「たいてい何らかの終助詞のついた発話になる」とする。
そして、「これらの助詞は雨が降っているという事実との関連で、話し手がそれをどのような気持ちで受け取っているかを表示したり(その際、聞き手がそれをどう受け取るかということへの配慮もたいてい含まれているものである)、あるいは、聞き手もすでに気づいているか、いないか、そして、気づいているなら共感を求め、気づいていないなら、注意を喚起するといったふうに話し手の側からの直接の働きかけの気持ちを表示したりする。」と指摘している。

自然な「文」の成立のためには「対人的な関わり」を表わす終助詞の付加が必須的であり、しかも、その相手との関わりの微妙な違いに応じて種々様々なバリエーションを持つ日本語。「ね」をはじめとする終助詞の存在とその用いられ方は、日本人が相手との関係性の中にいかに深く浸かってあるかをしているように思われる。

なお、日本語における終助詞(それ相当の表現を含む)と英語における終助詞相当表現の対比を試みた研究として、泉子・K・メイナード(1993)『会話分析』(くろしお出版)がある。そこでは、日本語の会話においては約9割が終助詞ないしはそれに相当する対人配慮的な表現で終わるのに対して、英語の文末表現において「聞き手めあての感情表現のついたもの」の出現割合はわずか2.26%であったという興味深いデータが紹介されている(p.124~126)。(注4)


2.4「自己決定の不在」…「自発」
「自己決定の不在」とは:
おそらく西欧では、「なるべくしてなった」「いつの間にかこうなってしまった」という私たちの意思決定の仕方は、まるで理解されないのではないかと思う。(佐藤直樹(2001)『「世間」の現象学』(青弓社)p.63)

2.4.1 「自発表現」 ―「場所」としての「私」
日本語では、

(1)「私は~と思う」
(2)「私は~と考える」

という言い方の他に、次のような言い方が存在し好まれている。

(3)「(私には)~と思われる」
(4)「(私には)~と考えられる」

「私」は能動的・積極的に結論を導き出す「主体」ではなく、結論が出来する「場所」となっている。「私」が「主体」ならぬ「場所」になる例としては、次のものもある。

(5)「(私には)星が見える」
(6) 「(私には)雷鳴が聞こえる」

2.4.2 「~ことになる」 ―「主体性」を秘す「私」

(7)「結婚することになりました。」

この表現における「私」も、「積極的に行為する主体」ではなく、結果を受け止める存在になっている。

(8)今度の正月休みにはハワイへ行くことにした。(「自らの意思で主体的に決めたこと」)
(9)今度、出張で中国に行くことになった。(「自らの意思とは別のところで決まったこと」)
((8)(9)例とその解釈は、『中上級を教える人のための 日本語文法ハンドブック』スリーエー)

2.4.3 尊敬語と謙譲語の成り立ち ―「自然発生」を尊び、「行為」を卑しむ心根
能動性・意思性・制御性、くくって言えば、<主体性>というものに対する日本人の深層心理の現れと言えるのが、敬語の成り立ちである。
 日本語では、自然発生に関わる「なる」が「お~になる」(お持ちになる)のように、相手を尊ぶ尊敬語に使われ、主体性や能動性に関わる「する」が「お~する」(お持ちする)のように、自らを卑しめる謙譲語に用いられている(この点を指摘したのは、牧野誠一(1978)『ことばと空間』(東海大学出版会))
※「尊敬」の意味を持つ助動詞の「れる」「られる」のそもそもの意味は「自発」とされている。


2.5空気の支配・所与性 …「S」が析出されない構文的傾向
2.5.1 「空気の支配」と「世間の所与性」とは

「空気の支配」:
問題なのは、その決定が理屈のうえで合理的にではなく、非合理的に「空気」によって「なるべくしてなった」「いつのまにかこうなってしまった」というかたちでおこなわれる点である。(『世間の現象学』p.81)

「世間の所与性」:
(社会は「個人の意志が結集されれば変えることができる」)
「世間」と社会の違いは、「世間」が日本人にとっては変えられないものとされ、所与とされている点である。(略)「世間」は天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうにもならないものと受けとめられていた。(阿部謹也(2001)『学問と「世間」』(岩波新書)P.111~112)

2.5.2 日本語における自動詞構文への好み ―非分析的傾向
(以下は、池上嘉彦他(2009)『自然な日本語を教えるために 認知言語学を踏まえて』(ひつじ書房)の池上氏担当部分を基にまとめた。)

1.(子どもがミルクをこぼしてしまって)
「あ、ミルク(が)こぼれちゃったよ。」
⇔“Oh, no, she spilled the milk.”(子どもがミルクをこぼしてしまったよ。)

(参考)「整理したため物が動いているかもしれません。よろしくお願いします。」

2.「彼は戦争で死んだ。」
⇔He was killed in the war.(彼は戦争で殺された。)

英語の方では、他動詞を使うことで彼を殺した主体の存在が暗示される。

3.同様の日英の間の対立は、感情を表す一連の表現の間にも認められる。
日本語では、
「喜ぶ」、「がっかりする」、「満足する」、「驚く」
と自動詞が使われるところで、英語では、
   be delighted、be disappointed、be satisfied、be surprised
と、他動詞の受動態が使われる。
「日本語話者にとっては<自然とそうなる>ものとして受け止められているが、英語話者にとっては<何かがそうさせる>として捉えられている」と池上氏は指摘している。
上に見たような日本語話者に見られる「自動詞構文」への好みから、池上氏は、日英語両話者について次のような傾向の違いを指摘する(前掲書、p.22)。

英語話者:
<起因>に拘り<事態把握>をする傾向が認められる。

日本語話者:
<起因>を考慮外に置いて出来事そのものの<出来>に焦点を当てて<事態把握>を行う 傾向が認められる。
(加藤要約)

また、『英語の発想』(ちくま学芸文庫、2000年。元、講談社現代新書、1983年)において、安西徹雄氏も次のように述べている。

*****
確かに英語は、ある情況ないしは出来事を言語化しようとする時、まずこれを論理的に分析し、分節化して、一個のアイデンティティーをもつと考えられる項を析出し、ある実体的な<もの>として名詞化する(この場合もちろん<もの>とは、単に物ばかりではなく者、つまり人間をさすことも多い―というより、むしろ典型的には動作主としての人間である)。さて、こうして名詞として定着された<もの>が、もう一つの、同じように抽出された<もの>にたいして、なんらかの動作を働きかけ、その結果として一つの情況なり出来事なりが成立した ― 英語は、こういう捉え方をする傾向が強いのである。
 これにたいして日本語は、情況ないしは出来事を、できるだけこれに密着して、まるごとすくい取ろうとする。抽象的に分節化して、実体的な<もの>が、もう一つの<もの>に働きかける関係として捉えるよりは、
あたかも情況が、全体としておのずから成ったというように ― つまり、要するに<こと>として捉えようとする傾向が強い。往々にして、主語を明確に取り出すことさえしないのである。(太字、引用者)
*****

池上氏の「起因」、安西氏の「出来事を成立させる『もの』」とは、他動詞構文の「主語」のことである。

英語においては析出されるその「主語」が日本語においては往々にして析出されない傾向を持つことは、「事態を成り立たせるもの(=起因)」を問うていこうとする分析的な志向の希薄さを意味するだろう。この日本語の構文的特徴としての分析的志向の希薄さと、われわれ日本人が往々にして「空気」に支配されてしまうこと、世の中を「所与」のものとみなしてしまうことは関連すると思われる。

われわれにとって、結果は、「主語」によってつくりだされるものではなく、「自ずから成る」ものなのだ。


2.6 「差別性・排他性」…「自己」中心性と二人称志向性
2.6.1 「自己中心性」と「差別性・排他性」 ― 差別性の背景

2.5で見たように、「出来事を成立させる主体」に関しては、英語がそれを析出しようとする傾向を強く持つのに対して、日本語はそうではなかった。いっぽう、2.1~2.3でとりあげた、敬語や人称詞のバリエーション、「あげる」と「くれる」の使い分け、終助詞の用法などが関わる、「私」と「相手」との関係性については、日本語がそれを積極的に表わそうとするのに対して、英語はそうではない。英語では「主体」と「客体」の関係が問題にされるのに対して、日本語では「自分」と「相手」との関係が問題にされるという対比が成り立つ。(加藤薫(2012)「日本語の構文的特徴から見えてくるもの ―「主体・客体」と「自分・相手」―」『文化学園大学紀要 人文・社会科学研究』20号)

この違いは、両言語における表現主体の「視点」の違いを示唆するものと思われる。すなわち、英語の方は、第三者的視点から事態を把握しようとする傾向が強く、それに対して、日本語の方は、自己中心的な視点から事態を把握しようとする傾向が強いと考えられる。
 上にあげた例のほかに、日本語の自己中心性を示唆するものとしては、補助動詞「~てくる」と受身の用法がある。これらは、「私」と「出来事」との関係性を表す。(注5)

 「世間」に認められる、「他者」を「身内」と「他人」とに分ける傾向は、この「自己中心性」と関わるのではないだろうか。第三者的な視点からはフラットに存在する各人称が、自己中心的な視点においては、自己を中心として色分けされることになるからである。

2.6.2「二人称」への過剰とも言うべき配慮
① 敬語、②人称詞、③終助詞、④あいづち
 自己中心的な視点と二人称への過剰な配慮は通底する。第三者的な視点ではなく自己中心的な視点をとる場合、「相手」の存在は大きなものになる。

2.6.3「三人称」への冷淡な扱い
二人称のための特別な表現が種々用意される一方(2.6.2)、二人称に(さえ)了解可能な内容であれば、主語や目的語等の文の骨格的内容が大胆に省略される。その結果、その場に居合わせる人間でないと何を言っているのか意味不明になる傾向が認められる。

「二人称」に厚く、「三人称」に対して冷淡な日本語の構文的な姿は、身内に厚く、他人に薄情な「世間」のあり方の、原型と言えないか。


3.まとめに代えて -今後の課題
今回の発表では、日本語の構文的特徴が世間学における諸指摘と符合することを見てきた。とりあげた日本語の構文的特徴は、その多くが、単に欧米の言語との比較において言えるというものではなく、同じアジアの国々の言語の中でも特異性が認められるものである。

今後の課題としては、言語類型学的な考察をすすめ、日本語の特徴付けの精度を高めるように努めることと、そのことと関連させつつ、「世間」を成り立たせているものは何なのか?(つまり、「世間」の背景)について考えていくことである。

これまでの「世間学」においては、「世間」と「社会」を分かつものとしてキリスト教の存在が注目されてきた。「社会」の成立にキリスト教の存在が影響していることは確かだとして、その範囲、その程度を見極めていきたいと思う。そのためには様々な方面からの考察が必要となろうが、発表者は「ことば」を手がかりに進めていければと思っている。



(注)
注1 「世間学における指摘」として六つの指摘を取り上げるにあたっては、阿部謹也の著作のほか、佐藤直樹(2001)『世間の現象学』(青弓社)と鴻上尚史(2009)『「世間」と「空気」』(講談社現代新書)を参考にした。

注2 水谷(1985)『日英比較 話しことばの文法』(くろしお出版)では、「日本語のほうは、同じ相手には同じ丁寧さをまもることが多く、英語では相手との恒久的な関係よりも発話の場面と目的によって変わる」とし、14才の姉が弟に、「Could you pass me the salt,please?」という丁寧な依頼文を用いているケースを紹介している(P.194)。

注3 しかも、それらの言語も日本語に比べると用法が限定的であることが山田(2004)に指摘されている。例えば、韓国語は(日本語と文法的に共通する要素が多い言語だが)「~てあげる」と「~てくれる」の区別はなく、また、「もらう」に相当する動詞を用いて「~てもらう」のような表現をすることは通常ないとされている。ヒンディ語も韓国語と同様である。カザフ語は「~てもらう」に相当する形式を持つが、「~てあげる」と「~てくれる」をひとつの形式で表わすという。

注4 なお、「聞き手めあての感情表現」に数えられているのは、
1.“you know”“right”“OK”等
2.付加疑問
3.相手をファーストネームで呼ぶ。
4.“or something”“like”などのあいまいさ、躊躇を表わす表現を文末に加える。
5.接続詞“though”や“but”を文末につけて表現を和らげる。
等のものである(p.124)。

注5 日本語では「母が弟にリンゴを送ったそうだ。」とは言えても、「母が私にリンゴを送った。」とはならず、通常、「母が(私に)リンゴを送ってきた。」という言い方になる。このような補助動詞「~てくる」の用法は、英語や韓国語には見られない。南アジアの諸言語も同様。中国語は同様の言い方があるが、使わないこともできる。ただし、東南アジアの諸言語には同様の用法が認められる(堀江薫,ブラシャント・パルデシ(2009)『言語のタイポロジー ― 認知類型論のアプローチ ―』研究社、p.205~211)。
  日本語の場合、話者が被害者になったときは、「(私は)財布をとられてしまった。」のように、話者が文の主題となり受身文が使われることが普通であるが、そのような場合、英語では能動文が用いられる。日本語に最も近い言語と言われる韓国語も英語と同様である。
なお、日本語における「視点」の特徴については、大江三郎、森田良行、池上嘉彦、金谷武洋氏などが言及している。

「小平の風」に「世間学と日本語」と題して書きました

勤務校のブログ「小平の風」に、今回は、世間学における主張と日本語のあり方の“符合性”について書きました。

こちら です。

そこでも触れましたが、上記テーマをめぐり、次の第28回日本世間学会研究大会で発表します。
学会に提出した発表の概要は次のようなものです。


++++++++++
世間と日本語に通底するもの
-主体性と第三者的視点の欠如-

この国には、なぜ「個人」と「社会」が存在しないのか。この問いに対して、日本語論の立場から考察する。

日本語には、「長幼の序」、「贈与・互酬の関係」、「共通の時間意識」、「自己決定の不在」、「差別性・排他性」、「呪術性・神秘性」等々の「世間」の特徴とされる性質にぴたりと符合するといっても過言ではない諸々の文法的特徴が認められる。
「敬語」、「多様な人称詞」、「授受に関わる表現」、「終助詞『ね』」、「SVO的把握の希薄さ(ナル的把握の強さ)」、「自己密着的視点」、「二人称志向性の強さと三人称指向性の弱さ」などである。

これらの日本語の特徴は、欧米の言語に認められないというだけではなく、世界の多くの言語に認められないものである。「世間」の背景をキリスト教の影響の有無から考えることの妥当性についても少し触れてみたい。
++++++++++


<「小平の風」の過去記事>
・神戸・京都・奈良研修 ~伝統文化と欧米の文化~

・This is a pen. を日本語にできるか?

・「好きです」に面くらったフランス人の日本文化論-主体=「創造主」不在の文化-

・日本語とPTA -「主体性と公共性」の希薄さをめぐって―

・日本世間学会

・「ネット」の力 ― 仙台市教育課題研究発表会に参加して


全員参加型PTAで「役職の強要」をなくせるのか? (経験者さんからの質問に答えて)

皆さま、たくさんのコメントありがとうございます。
勉強させていただいています。

前々エントリ(8/23)に対していただいた「経験者」さんからのコメント(質問①~③)へのレスを考えていましたら長くなりましたので、エントリを立ててお答えさせていただくことにしました。


経験者さんからの質問①
>これのどこがリアリティが無いのか、逆にお聞きしたい。(コメント34)

経験者さんの改革案への疑問を以下、述べます。

<1>何が必要で何がムダかは誰にも決められない
経験者さんは、「まずやらなくていいことを減らして、20人くらいは強制しなくてもやってくれる人は来てくれるから、(以下省略)」と、ムダな仕事をなくせばPTA問題は簡単に解決すると主張されます。(コメント25)

しかし、「やらなくていいことを減らし」たら、ゼロになっちゃいませんか?
別の言い方をすれば、「やらなくてはいけないこと」って、あるのですか?

コメント34でお示しになっている三つの委員会の仕事の内容は、一見すると、「これなら確かに保護者は苦労しなくて済むよなあ」という簡略化されたものです。
しかし、ちょっと冷静に考えてみると、その三つの委員会の仕事内容って、別に「なくなったって誰も困らないもの」ではありませんか?
なくても、学校も、親も、そもそも子どもも困らない。
そういった活動を「保護者全員を巻き込んでまで」維持する必要があるのでしょうか?


<2>活動の膨張を止めることは難しい
次に、<1>の内容と密接にかかわることですが、「張り切る人」をどう抑えるのかの問題です。
もともとPTAには「子どものため、子どもがお世話になっている学校のため」という大義名分がありますから、「どうせやらなくてはいけないなら、【意味のある】活動をしよう」という人が出てきてもぜんぜんおかしくありません。
気合を入れてPTA新聞の編集をしコンクール入賞を目指したり、校外の安全のためにいろいろな活動に取り組もうとしたり。
このような動きは、あなたの言う「やらなくてもいいこと」を生み出すことになったり、また、所詮、素人の集まりですから、効率も悪く、あなたのような一線のビジネスマンから見たら「何やってんだ。オバさんたちが」という感じになるのかもしれません。
でも、それではいったい、そういう動きをどうやって抑えますか?
そして、もし抑えられたとしても、あとに残るのは、コメント34に示されているような【ほとんど無意味】な活動になってしまうのではないでしょうか。


<3>地域や学校から依頼される仕事は断りにくい
<2>でとりあげた会員からの内発的な仕事の増加に加えて、学校や地域から依頼される仕事が多々あるPTAも多いです(あなたの地域はこの点において相当に恵まれているようですが)。
地域ぐるみで仕事を頼まれる場合、よその学校はこなしていることが多く、自分たちの学校だけ抜けるわけにはいかないという大きなプレッシャーもかかるわけです。
地域や学校から押し付けられる仕事をどうはねのけますか?
しかも、ややこしいのは、保護者の中には、「地域や学校から依頼される仕事」を、まさに保護者が積極的に取り組むべき【本来の仕事】と感じる人もいることです(そういう熱心な人がいること自体何も不思議ではないし、悪いことではないですよね)。


以上、三つに分けて述べてきたことをまとめますと、「無駄な仕事をなくせばいい」と言っても、なくしていけば会としての存在意義がなくなりかねない。いっぽう、仕事が増えていく要因は内部的にも外部的にも存在します。

「仕事の強制的な割り当て」をしないことには会が回らなくなるのは、“全員参加型PTA”の「構造的必然」だと言うべきではないでしょうか?


経験者さんからの質問②
>非会員が発生すると、どうして彼らに対してのプレッシャーになるか意味がわかりませんが、分かりやすくご説明してもらえますか?(コメント41)

<4>PTAの「暴走」を防ぐためにも、入退会自由の確認・周知は必要
入退会自由になれば、「無茶なことをすれば会員がいなくなり、会が消滅するかも(汗)」という健全な危機意識が執行部や学校・教委側に生まれるはずであるということです。
「入退会不自由」な状態では、執行部や、教委・学校幹部などのやりたい放題になりがちですから。
(この考えは、川端さんの『PTA再活用論』でも紹介されていますのでご参照いただければと思います。)

あなたが言うところの「極悪非道の教委」に対抗するものがあるとしたら、「保護者一人ひとりの自由意思」ではないでしょうか。
あなたの唱える「全員参加体制」は、その大切な自由意思を縛ってしまうという点で賛成できません。


経験者さんからの質問③
>私は退会者が出ることを、目の敵にしてるわけじゃありませんよ。自分の経験上、必ず大きな軋轢が生じて、退会者が幸せになれないと確信してるから、そういう人を出したくないだけです。
日本には言論の自由がありますから、退会者への風当たりを防ぐ手立てがありません。
(コメント41)

<5>役職の強要をめぐる軋轢にも目を向けるべき
あなたは「『退会者』はピラニアの餌食になる」と退会者の心配ばかりされていますが、今現在、役職を押し付けられて困っている人は、どうでもいいのですか?
「役員決め前より相当不安が高まります、女性に関しては少なからず当院受診の理由としてこうした活動に関するものです。」といった精神科のお医者さんの発言とか、ご存じないですか?
(精神科 本当の話 PTA・地域活動に悩む母親たち(2011.07.18)

最近でも、北海道のmoepapaさんのブログでPTA活動により追い詰められたお母さんの話が取り上げられていますよね。その他にも、似たような話はネット上にあふれているといっても過言ではありません。
いっぽう、退会をすることで追い詰められたという人の話はあまり聞きません(リスクがないと言っているわけではないので、誤解なきよう)。

そもそも、役職の強要がなぜ横行しているのかと言えば、誰かがやらなければ自分にお鉢が回ってくるからではないでしょうか。
その大きなストレスが母親たちに「冷酷非道」なこともさせているのだと思います。
いっぽう、会費の方は、「入会しない人がいる分だけ自分たちの会費が値上げされる」というのならばまだしも、ピラニアを活性化させるというのはちょっと想像しにくいです。
和歌山の件をきっかけに、PTA会費から学校への寄付金が減っていくなら、会費の問題はなおのこと問題になりにくいように思います。

和歌山・PTA会費をめぐる指針について朝日新聞にコメント

<和歌山のPTA会費流用問題をめぐり朝日新聞にコメント>2012.07.01
の続報です。

8月30日、PTA会費の使い道に関する指針が和歌山県教委から出されました。
(当初の予定より一カ月遅れです。まとめるのに相当苦労されたようです。)

朝日新聞和歌山総局の平畑記者から今回も取材を受け、拙コメントが掲載されました。

学校経費 実態浮き彫り
◎PTA会費流用/県教委、改善へ新指針
(朝日新聞和歌山版・2012年08月31日)



ここ最近、拙ブログでつらつらと考えてきた「『保護者一人ひとりの自由意思』が担保されることが重要だ」との論点が紹介され、うれしく思っています。

いっぽう、和歌山県教委の見解は、予想通りというべきか、「『会員の総意』があれば受け取ってもいい」というものでした。
これは、先のエントリ(07.16,08.18)でご紹介した、岡山県教委、島根県教委、宮崎市教委等の指針と同様のものと言えます。

学校が保護者からの浄財を受け取る場合、考慮されるべきは、「保護者の総意」なるものなのか、「保護者一人ひとりの自由意思」なのか?
記事の中で、二つのキーワードが対峙したことになります。


PTAの強制加入の問題も、役職の強要の問題も、「保護者の総意」によって成り立っていると言えます。
私としては、「保護者の総意」によって"こと"を進めていくことは到底認め難いのですが、現時点での文科省・教委のスタンスは、「保護者の総意」推しです。
今後、「保護者の総意」なるものをターゲットに考察を進めていきたいと思っています。


話は少し変わりますが、読売の記事にとても注目されることが書かれていました。

*****
また、(県教委幹部は)校長名で支払いを求めるなど、半ば強制的に行われてきた会費の徴収方法は、「今後学校に指導していく」と述べた。
読売新聞・PTA会費流用、「保護者の意向だ」と教育長(2012.08.31)
*****

教委が、PTA会費の強制的な徴収に関して「学校に指導していく」としたのは、たぶん「日本初」であり、画期的なことだと思います。
「保護者一人ひとりの自由意思」が担保される方向への動きとして、注目されます。
※記者会見で会費の強制的徴収の問題に関して質問をしてくれた朝日の平畑記者に感謝です。


「会としての議決」を経ていれば何でも正当化されるわけではない

前エントリに対していただいた「正直」さんからのコメント(19)へのレスを考えていましたら長くなりましたので、エントリを立ててお答えさせていただくことにしました。


「寄附者というのは個人に限られるのでしょうか。」とのことですが、「団体」も寄付者になれます。「団体」からの寄付を否定するつもりはありません。国立大学の附属学校で行われているであろう「(会費とは別に、寄付金を任意の額で会員から集める)後援会からの寄付」は、先のエントリ(2012-07-30)でも触れたように“あり”だと思っています。


>社団法人に準じればPTAという団体も一寄附者といえ、その意思決定は各団体で規約に定めてある決定機関・方法に拠りなされた場合、PTAという寄付者の自発的意思と解釈できるのではないかと思えるのです。

問題は、その「構成員」の自発的意思が抑圧・侵害されてしまっていないかです。
団体としての「PTAの自発的意思」が担保されても、「保護者個々人の自発的意思」がないがしろにされていたら、問題ではないですか?

その観点から考えると、「PTAからの寄付」は、以下の点で、問題を含むと思っています。

①ほとんどのPTAで入退会の自由が十分に担保されていない

②(「規約上「会費の何%までで総会決議によった一律の額を総会決議によった費目において寄付を行う場合もある」などのような条文を明記し、入会時に説明して、同意を得た者だけを入会させる」((c)ぶきゃこさん)ようなケースは別として)学校に対して、あるものを寄付するか否か、いくらくらい寄付するのかについては、保護者個々人により考え方や事情が異なることが当然予想されるから、「多数決による決定」は寄付の基本的な性格から考えて問題がある


②の論点に関しては、ぜひ、拙エントリ<「事実上の強制」を認めた画期的な判決 その1(自治会裁判とPTA(3))>をご参照ください。
また、最近の拙エントリ<『学校納入金等取扱マニュアル』を読む(下) ― ないがしろにされる保護者一人ひとりの意思>も合わせてご参照いただければと思います。

②の論点について補足しますと、甲賀市の自治会判決では、自治会費から寄付金が支払われることについて、「会員の思想、信条の自由を侵害するものであって、公序・良俗に反するとされました。

ここで注目しておきたいのは、自治会の会費から寄付を行うことに関しては、事前の話し合いと総会での議決も行われていたのに、それでも「思想信条の自由の侵害」が認定された点です。
自治会側は、「民主的な議決」を経ているから会費からの寄付金の支出は正当だと主張しましたが、その主張は認められなかったのです。


この甲賀市自治会をめぐる判決と、「寄付条例」に関連しての、寄付の採納に際して自治体側が留意しなければならない事項、すなわち、

第3条 寄附の採納をしようとするときは、次の各号に掲げる事項に留意しなければならない。
(1) 公序良俗に反しないこと。
(佐渡市寄附採納事務取扱規程)


といった規程に照らし合わせると、公立学校が、PTAから寄付を受け取る場合は、よっぽど慎重にならなくてはいけないと思うのです。
(「あり方」さんご教示ありがとうございます!)


このように考えてきますと、今回、文科省から出された「通知」の中の、「一方、学校関係団体から学校に対して自発的な寄附(金銭・物件)を行うことは禁止されておらず」の部分は、それ自体誤りではないですが、非常にミスリーディングではないかと思うわけです。



「正直」さんへ
・御地における寄付採納のあり方をご教示くださり、ありがとうございます。
・何かの文書を引用されているようですが、その場合は、引用箇所と出典の明示をお願いします。

文科省「PTA会費に関する通知」を読む 考察篇

本年5月9日に文科省より出された「学校関係団体が実施する事業に係る兼職兼業等の取扱い及び学校における会計処理の適正化についての留意事項について(通知)」について、思うところを述べてみたい。


1.評価できる部分と問題を感じる部分
(評価できる部分)

++(引用)++
2.学校における会計処理の適正化に係る留意事項
①学校の管理運営に係る経費については、当該学校の設置者である地方公共団体が負担すべきものであり、地方財政法等の関係法令に則して会計処理の適正化を図ること。
 その際、同法第27条の3及び第27条の4は、学校の経費について住民に負担転嫁してはならない経費を規定しており、その趣旨の徹底を図るとともに、それらの経費以外のものについても、住民の税外負担の解消の観点から安易に保護者等に負担転嫁することは適当でないこと。
(太字化、引用者。以下、同じ)
+++++

「それらの経費以外のものについても、住民の税外負担の解消の観点から安易に保護者等に負担転嫁することは適当でないこと。」の部分に注目したい。

地方財政法27条の3及び第27条の4における規定の遵守の徹底を求めつつ、そこからさらに推し進めて、27条の3及び第27条の4において負担の転嫁が禁止されてはいない経費についても、「住民の税外負担解消の観点から安易な負担の転嫁は不適当である」と、文科省として明言している。
全国の公立学校に向けてこのような大きな方向付けを行った点は評価できる。


(問題を感じる部分)
以下は、先に引用した①に続く②の部分である。

++(引用)++
②学校関係団体から学校に対して行われる寄附について、地方公共団体が住民に対し、直接であると間接であるとを問わず、寄附金(これに相当する物品等を含む。)を割り当てて強制的に徴収することは、地方財政法第4条の5の規定により禁止されていること。
 一方、学校関係団体から学校に対して自発的な寄附(金銭・物件)を行うことは禁止されておらず、この場合には、その受納に当たって、当該学校の設置者である地方公共団体が定める関係諸規程等に従い、会計処理上の適正な手続きを経ること。
+++++

前段で地方財政法第4条の5(割り当て的寄附の禁止)で禁止されている内容を確認し、後段で、「一方、学校関係団体から学校に対して自発的な寄附(金銭・物件)を行うことは禁止されていない」と述べられている。

以下、この部分の妥当性について検討していきたい。



2.「PTAからの寄附」は、「真に自発的な意思に基づく寄附」たりえるのか?

文科省の通知には、「学校関係団体から学校に対して自発的な寄附(金銭・物件)を行うことは禁止されていない」とあり、PTAから学校への寄附を容認している。
しかし、問題は、先に宮崎市教委の『学校納入金等取扱マニュアル』を検討するところでも言及したが、PTAからなされる寄附において、「寄附者の真に自発的な意思」が担保されるかである。

現状、多くの学校のPTAでは、入会の意思確認の行われない自動加入方式になっている。そうなると、PTA会費の一部が寄附金に回された場合、「寄附者の真に自発的な意思」が担保されるとは到底言えないだろう。

また、たとえ入会の意思確認をしているPTAがあったとしても、どのような費目につき、どの程度の金額を寄附するのかについては、一人ひとりの保護者によって考え方や経済的な余裕度はいろいろなので、やはり、会費の一部が一律的に寄附に回されるやり方は、これまた「住民の側からする真に自発的な意思に基づく寄附」とはなりえない。

このように考えてくるならば、“「学校関係団体からの自発的な寄附」は受けて構わない”とする文科省の指針には疑問を感じざるをえないのだ。


一方で、今から12年前に、文科省高等教育局から国立大学の附属学校に対して出された類似の通知においては、

「2-②寄附はあくまでも寄附者の自発的意志によるもので、寄附金額についても割当の方法によらない任意の額となっていること。」

と、「寄附者の自発的意思」がしっかりと考慮されたものになっているのだ。
すでに12年も前に担保されるべきとされた保護者個々人の自由意思が、なぜ今回新たに出された通知においてはないがしろにされてしまうのだろうか。
※(2012.8.23追記)附属学校への「通知」における「寄附者」が、「保護者個々人」を指すことは当該「通知」の全体を見れば明らかです。が、念のため、高等教育局に確認したところ、「その通り」とのことでした。


3.「寄附者の自発的意思」の有無をめぐる注目すべき見解の対立
実は、この「寄附者の真の自発的意思」が担保されるか否かの問題は、今年の3月にPTA会費の流用が和歌山で問題になった当初はクローズアップされていたのであった。

PTA会費の不適切使用が表面化したのは会計監査委員からの指摘が発端だったとされるが、会計監査委員と県教委との間には次のような非常に興味深い見解の対立があった。

楠本隆代表監査委員が、

「PTA会費は事実上、ほぼ強制的に徴収されている。県が支出すべき公費に使うことは、地方財政法にふれる可能性がある」

と、寄附の任意性が担保されていないことを問題にしたのに対して、県教委総務課は

「PTAへの加入は任意であり、会費の使い方は学校に一任されている」

と、任意性は担保されていると反論しているのだ。
(朝日新聞2012.3.22「PTA会費が賃金に 和歌山県監査委員が改善求める」)

つまり、ここでの争点は、「寄附者の自発的意思」が担保されているか否かにあったと言える。「寄附者の自発的意思」が担保されていないからPTAからの寄附は違法の疑いが濃いとする監査委員と、PTA加入の任意性は担保されている(つまりは「寄附者の自発的意思」が担保されている)から違法とは言えないとする教委。

この見解の対立、つまりは、個々人の任意性が担保されるのか否かをめぐる対立は、地方財政法上の重要な論点である。
しかし、この重要な論点は、その後の報道ではとりあげられることはなくなり、「こんなことにもPTA会費が使われている!」といった使途の側面がもっぱら大きくクローズアップされることとなった。


4.「PTAからの寄附」で「保護者の任意性」が担保されるのか文科省に聞いてみたい
その寄附金が何に使われるのかという「使途」も大切であるが、その「寄附」が自発的になされたものなのかという「任意性」の問題は、「使途」の問題に勝るとも劣らない重要なポイントのはずだ。

文科省初等中等教育局は、「学校関係団体からの自発的な寄附」によって「真に自発的な意思に基づく寄附」が成り立つと考えているのだろうか?
もしそう考えているとしたら、そのロジックは、宮崎市教委と同様の、“多数決で決まったことには従うべし”といった理屈なのだろうか。
(宮崎市教委の言い分は、<『学校納入金等取扱マニュアル』を読む(下) ― ないがしろにされる保護者一人ひとりの意思>の後半参照)

ちなみに、宮崎市教委による『学校納入金等取扱マニュアル』におけると同様の指針(PTAからの自発的な寄附なら受け取ってよい)は、他の教委のマニュアルにも認められる。

・岡山県教委『学校徴収金等取扱マニュアル』(平成16年5月)「第1編 PTA会計」

島根県教委『学 校 徴 収 金 等 取 扱 要 綱』(平成20年9月22日制定)「第2条(団体からの支援経費の取り扱い)」


これらのマニュアルでは、宮崎市教委のマニュアルと同様、「PTAの自発性」を担保するよう学校に対して注意を促してはいるものの、「保護者個々人の自発性」には思慮が及んでいない。

今回の文科省からの通知は、それらの教委マニュアルで示されている指針と軌を一にしている。


税金が多数決により正当化されることはあっても、寄附が多数決により正当化されることはあり得ないと考える。
いったいどのようなロジックにより、文科省は「PTAからの自発的な寄附なら受け取ってよい」としているのだろうか?
ぜひ聞いてみたいと思う。

文科省「PTA会費に関する通知」を読む 資料編2(逐条解説)

文科省による「PTA会費に関する通知」では、関連する法規として、地方財政法の次の三つの規定が参照されている。

<1>第四条の五(割当的寄附金等の禁止)
<2>第二十七条の三(都道府県が住民にその負担を転嫁してはならない経費)
<3>第二十七条の四(市町村が住民にその負担を転嫁してはならない経費)

このエントリでは、その逐条解説(『新版 地方財政法逐条解説』ぎょうせい、平成12年)における論点を追ってみたい。
著者は、当時の自治事務次官 二橋正弘氏と、当時の元自治事務次官、元内閣官房副長官の石原信雄氏。

この逐条解説、とっても分かりやすく、頭の整理ができたように思います。結論先取りのもの言いになってしまいますが、これを読んで、文科省の通知に対する違和感に根拠が与えられたように思っています。


以下、条文を示し、その後に『新版 地方財政法逐条解説』中の解説を抜き書き的に引用します。なお、引用部分の後に当方のコメントを付けることもあります。


<1>第四条の五(割当的寄附金等の禁止)
国(国の地方行政機関及び裁判所法 (昭和二十二年法律第五十九号)第二条 に規定する下級裁判所を含む。)は地方公共団体又はその住民に対し、地方公共団体は他の地方公共団体又は住民に対し、直接であると間接であるとを問わず、寄附金(これに相当する物品等を含む。)を割り当てて強制的に徴収(これに相当する行為を含む。)するようなことをしてはならない。

(引用1-1)
元来、寄附金は、自発的・任意的なものであるべきであるが、戦後においては、国・地方公共団体・住民の間において、寄附金の名目に隠れた負担の強制的転嫁が甚だしく、これが財政秩序を乱す重大な原因ともなるおそれがあることにかんがみ、設けられた規定である。(p.43)

まるお:「寄附金の名目に隠れた負担の強制的転嫁が甚だしく」のところに注目です。
やや脱線しますが、「本来自発的・任意的なものであるべき『寄付』が強制される」という構造は、PTAに認められる「ボランティアの強制」と瓜二つではないでしょうか。



(引用1-2)
寄附金の強制徴収は、直接又は間接を問わない。間接的徴収とは、何々後援会のごとき媒体を設けて目的を達しようとする方法を指す。(p.43)


(引用1-3)
「割り当てて強制的に徴収(これに相当することを含む。)するようなことをしてはならない。」とは、一体的な観念と解されている。すなわち、「割り当てる」ということは、当然、強制の意味を含むものであるので、本条はこの「割り当てる」行為自体を禁止し、あわせて「強制的な徴収(これに相当することを含む。)」を禁止しているのである。したがって、割り当てをしても強制的に徴収さえしなければよいと解してはならない。(p.44)

まるお:太字の部分に注目です。「PTA会費の中から学校への寄附を行う行為」は、結果として、各家庭への「割り当て」になるのではないでしょうか?


(引用1 -4)
「強制的に徴収」とは、権力関係又は公権力を利用して強圧的に寄附をさせるという意味であり、応じない場合に不利益をもたらすべきことを暗示する等社会的心理的に圧迫を加える場合も含むものである。(中略)
 しかしながら、本条は、割当的寄附金の強制徴収を禁止するにとどまり、篤志家の寄附のごとき真に自発的な寄附金を禁止するものではない。(p.44)

まるお:寄附の強制を禁止しているものなのだから、「真に自発的な寄附金を禁止するものではない」との指摘は蛇足のようですが、この注意は関連する条文の解説の中にも繰り返し出てきます。それだけ抜け落ちやすい論点ということかもしれません。


(引用1-5)
住民と地方公共団体との関係について、本法第二十七条の三及び第二十七条の四の規定があり、これらの規定に定められている経費は、割り当てて強制的に徴収する方法でなくても、住民に対して負担を求めてはならないものとされている。ただ、住民の側からする真に自発的寄付は、何ら禁止するものではないことは、先述したとおりである。(p.50)

まるお:「負担を求める」とは具体的にどのような行為を行うことなのかはつまびらかにされていませんが、「学校・行政側からの協力の要請は一切行ってはならない」という理解でよさそうに思います。では、なぜ「負担を求めてはならない」となったかは、次の引用2-1を参照。


<2>第二十七条の三(都道府県が住民にその負担を転嫁してはならない経費)
都道府県は、当該都道府県立の高等学校の施設の建設事業費について、住民に対し、直接であると間接であるとを問わず、その負担を転嫁してはならない。

(引用2-1)
住民に対する強制的寄附金等は、市町村に対する場合と同様、すでに、第四条の五において禁止されているのであるが、当該寄附金が強制的なものであるかどうかは実際の問題としてかなり判断の困難な問題であり、現に自発的な寄附金であるという理由によりかなりの負担が課されている実状であるので、このような事情を考慮し、実質的に住民に負担の転嫁となるようなものをすべて禁止することとするため本条が新設されたのである。
 ただし、特定の個人又は法人が寄附をする場合のように真に任意的な寄附金は本条規定外であると考える。(p.233~234)
(改行、引用者)

まるお:四条の五があるのに二十七条の三と四がなぜ設けられたかが説明されています。強制と任意の境目はかなり微妙なので「実質的に住民に負担の転嫁となるようなものをすべて禁止」した、とのこと(引用1-5参照)。


(引用2-2)
なお、二十七条の二では「負担させてはならない」と規定し、本条では「転嫁してはならない」と規定しているが、両者の違いは、前者は自発的なものを含めて一切の負担を禁止しようとするものであり、後者は自発的な寄附金までも排除しようとするものではないという点にある。(p.234)

まるお:条文中の文言の使い分け(「負担させてはならない」と「転嫁してはならない」)についての解説。この解説により、第二十七条の三と二十七条の四にあっても、「自発性・任意性の有無」が違法・適法の分かれ目となる重要なポイントであることが理解されます。


<3>二十七条の四 (市町村が住民にその負担を転嫁してはならない経費)
市町村は、法令の規定に基づき当該市町村の負担に属するものとされている経費で政令で定めるものについて、住民に対し、直接であると間接であるとを問わず、その負担を転嫁してはならない。

(引用3-1)
本条制定時にあっては、地方公共団体の住民が、P・T・A関係寄附金、自治会等会費、その他土木・消防等の寄附金等多額の税外負担を事実上強制される状況が多くあり、税外負担は国民負担の均衡上も、過重負担の合理化の面からも、また地方財政の構造上からも 多くの問題を含むものであり、改善が強く要請されたものであるが、その後、本条の趣旨に沿って、改善が進められてきている。(p.235)

まるお:問題にされているのは、「明々白々な強制」ではなく、「事実上の強制」であることに注目しておきたいと思います。


(引用3-2)
「直接であると間接であるとを問わず」とは、個々の住民から直接負担金、寄附金等を徴収することはもちろん、P・T・Aとか自治会等を通じて徴収することも許されないとの意である。また「負担を転嫁してはならない」と規定されているのは、本法第四条の五に地方公共団体が他の地方公共団体又はその住民に対して寄附金を割り当てて強制的に徴収してはならない旨規定し、割当的寄附金を禁止しているが、従来税外負担といわれていたものは、実質的には強制的であっても、形式的には任意的な形をとるものが多いので、第四条の五で禁止されていない形式的に任意的な形をとる税外負担について禁止しようとしているのである。(p.235)

まるお:ここにおいても、問題は、「形式的な強制性ではなく、実質的な強制性の有無」なのだと強調されています。また脱線しますが、「形式的に任意的な形をとる税外負担」というのは、PTA問題の本質を言い当てているように思います。


(引用3-3)
市町村が住民に負担を転嫁してはならない経費の範囲は、本法施行令第十六条の三に定められているところである。その内容は、
 (1) 市町村の職員の給与に要する経費
 (2) 市町村立の小学校及び中学校の建物の維持及び修繕に要する経費
とされている。
 (1) の「市町村の職員」とは、一般職の職員、特別職の職員を通じ臨時職員その他名目のいかんを問わず市町村に雇用されているものをいう。したがって、とくに税外負担で問題になっている学校関係において、学校教育法第二十八条第二項に規定する「その他必要な職員」例えば用務員、学校給食調理員、学校図書館の司書等も当然これに該当する。

 (2) の市町村立の小学校及び中学校については、建物の維持修繕に要する経費のみを禁止の対象としており、建物の建設費については禁止の対象から除外されているが本条の趣旨からみて、建物の建設費についても一般的にはこれを住民に負担転嫁することは許されないものと解すべきである。次に建物とは、校舎・屋内運動場はもとより、校地内にある校用建物(例えば別棟の学校図書館・集会場・屋内プールの上屋など)を指すものである。「維持修繕に要する経費」の概念に含まれるものとしては、まず「維持に要する経費」として、学校の建物の維持管理のための経費、すなわち、火災保険料・電灯料・水道料・管理用消耗品等の経費が考えられる。また、「修繕に要する経費」としては、通常の破損の修理とか壁の塗替え等に要する経費、修繕に要する消耗品の購入費などが考えられる。(p.236)
 


次のエントリでは、以上の逐条解説の論点を踏まえつつ、文科省の通知に対する私なりの疑問をまとめてみたいと思います。

文科省「PTA会費に関する通知」を読む 資料編1(通知内容)

文科省初等中等教育局よりPTA会費の扱いをめぐって出された、次の通知について考察してみたい。

「学校関係団体が実施する事業に係る兼職兼業等の取扱い及び学校における会計処理の適正化についての留意事項について(通知)」(平成24年5月9日)
発信者:文科省初等中等教育局長
宛先:都道府県教委教育長及び各指定都市教委教育長



この通知については、前々エントリ<「附属学校の運営に要する経費等の取扱いについて」 ― “会費からなされる寄付は受けてはいけない”>の末尾でとりあげ、「残念なことに、保護者一人ひとりの任意性を担保しようとする姿勢は認められない」と当方の結論だけを述べた。
以下では、その説明を試みたい。

まず今回のエントリでは、文科省からの通知内容をご紹介したい。
次回のエントリでは、通知において参照されている地方財政法の、「逐条解説」に述べられていることを紹介する。
そして、さらにその次の回のエントリでは、「逐条解説」に述べられていることを踏まえつつ、文科省の通知のどこがどのように問題なのかを述べてみたい。


では、当該通知を以下、紹介します。
まず、前書きは以下のようである。

++(引用)++
 このたび、一部の教育委員会において、高等学校の生徒に対する補習等の活動について、教員が教育委員会の許可なくPTA等の学校関係団体から報酬を受けていた事実や、学校関係団体からなされた寄附等に係る支出の項目が学校教育法第5条や地方財政法の関係規定に照らして疑義を生じさせる事案等が国会において指摘されたところです。
 ついては、下記の事項に留意して適切に対応するとともに、域内の関係市町村に対しても、この通知を周知するようにお願いします。
 また、各都道府県教育委員会及び各指定都市教育委員会におかれては、別添の点検・調査事項について、自らが管理する高等学校及び中等教育学校(後期課程)における状況等を点検・調査して、平成24年6月6日(水)までに、その時点での点検・調査結果を報告していただきますようお願いします。
++++++++

それに続く本文は、以下のようである。
(前半の「兼業兼職」に関する部分は省略)。

++(引用)++
2.学校における会計処理の適正化に係る留意事項
①学校の管理運営に係る経費については、当該学校の設置者である地方公共団体が負担すべきものであり、地方財政法等の関係法令に則して会計処理の適正化を図ること。
 その際、同法第27条の3及び第27条の4は、学校の経費について住民に負担転嫁してはならない経費を規定しており、その趣旨の徹底を図るとともに、それらの経費以外のものについても、住民の税外負担の解消の観点から安易に保護者等に負担転嫁することは適当でないこと。
 また、学校教育活動として公務のために旅行命令に基づき支給される旅費(他団体主催業務等に依頼されて出張する場合に、当該団体が負担するものを除く。)や事務補助員等の地方公共団体の職員の給与について保護者等に負担転嫁してはならないこと。

②学校関係団体から学校に対して行われる寄附について、地方公共団体が住民に対し、直接であると間接であるとを問わず、寄附金(これに相当する物品等を含む。)を割り当てて強制的に徴収することは、地方財政法第4条の5の規定により禁止されていること。
 一方、学校関係団体から学校に対して自発的な寄附(金銭・物件)を行うことは禁止されておらず、この場合には、その受納に当たって、当該学校の設置者である地方公共団体が定める関係諸規程等に従い、会計処理上の適正な手続きを経ること。

③学校における会計について、学校関係団体の会計と明確に区分して処理するとともに、保護者等に対して学校配当予算の執行・決算等の内容をホームページや「学校便り」等を通じて、できるだけ情報公開するよう努めること。
+++++++


私は、②にある、「一方、学校関係団体から学校に対して自発的な寄附(金銭・物件)を行うことは禁止されておらず、」のところに、大きな問題を感じている。
(つづく)

「無理目か~さん日記」 -教育行政が真摯に対応すべき異議申し立て

ぶきゃこさんの「無理目か~さん日記」 から今、目が離せません。

PTAが任意に構成される団体である以上、PTA会員になるのもならないのも保護者の自由であるはずです。
いっぽう、保護者である以上、学校とは適切に連携し・協力する義務と権利があるはず。
ところが、PTAに入らないと、一保護者として学校と連携し協力したいと思っても、そのことさえ難しくなる。
そんなバカなことがあっていいのか?

ぶきゃこさんが校長・教委職員・文科省職員に対して突きつけているのは、

この国の教育行政においては、PTA非会員はまともな保護者としては認められないのか?

という問いかけのような気がします。
(PTA会員にならない限りまともな保護者として扱われないということは、実は、保護者一般の人権も認められていないことになります。)

現状、校長をはじめ教委は、PTAに入会しない親の存在をあくまでも例外扱いとしようとしているようです。
それに対する、ぶきゃこさんの冷静で鋭い突っ込みが痛快です。

相対することになっている校長先生や教委の職員は大変だと思いますが、ぶきゃこさんの疑問は、これまで言いたくても言えなかった、いや、意識したくても意識さえできなかった、多くの母親のお腹の中にあったはずのものであることに思いを致してほしいと思うのです。


PTA非会員の存在をきちんと認めることは、「個人」を大切にすることです。そして、このことは、いじめ問題とも決して無関係ではないと考えます。

「個人」を本当の意味で大切にできない学校が、いじめをなくせるわけがないと、私は大まじめに思っています。


文科省の担当者との対話もはじまっているようですが、そのような意味でも、注目です。