最初の尊皇の志士、菅原道真公と防府天満宮 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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何回かお参りしたのですが明治維新との関係など知りませんでした。改めて防府天満宮をお参りして、深い意味を知り感動しました。

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入口の鳥居
背後の山が天神山(酒垂山)

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大専坊、階段の途中、左手
9坊あった別当坊の現存の1坊、一族の毛利元就が大内攻めの時の本陣であり、幕末は維新の志士が集まり、来島又兵衛と遊撃隊の本陣となっていた。天満宮の神官鈴木高鞆と吉田松陰との交流もあり、維新の推進に積極的であった。

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階段、最上段、左に山門

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山門

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拝殿


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観音堂
本殿の右奥にあり、十一面観世音菩薩を本尊とし、道真公が信仰していたことで安置しています。天満宮は元、神仏習合の神宮寺で、明治初年まで酒垂山萬福寺とよばれていました。明治になり寺は廃止された。

また、創建以前、道真公が訪れられた頃、すでに存在した長門国の忌宮神社の祭神、仲哀天皇の本地仏が『十一面観世音菩薩』であり、菅原道真公(及び、一族の菅原氏、土師氏)が信仰しておられました。

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武運長久の碑、境内の奥
最初の尊皇の志士、祭神の道真公に志士達の戦勝祈願の千日詣の開始の碑と終了の碑

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奇兵隊の守護旗、毛利元純筆と高杉晋作像


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毛利重就公の業績
憮育局の創設により藩財政を立て直し、維新に貢献し、また防府の発展に貢献した。


天満宮のHPをそのままコピぺしましたが、行間にコメントや感想を書き込みました。

日本で最初の天神様

防府天満宮は学問の神様、菅原道真公を始め公の御祖先である天穂日命(あめのほひのみこと)・武夷鳥命(たけひなどりのみこと)・野見宿禰(のみのすくね)の四柱をお祀りしています。

菅原道真公の一族の菅原氏、周防国の国司の土師氏、後世の毛利氏は同族で子孫です。

公は、九州の太宰府に下られる途中、船を当地勝間の浦におつけになり暫くご滞在になりました。ご滞在中、酒垂山にお登りになり、「身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ずこの地に帰り来らん」とお誓いになり、周防国分寺にて家宝の金の鮎12尾を国司土師信貞に託して寂しく旅立たれました。

一族の出世頭の道真公を囲んでアットホームなもてなしだったと想像します。京に住めなくなった一族の先進知識や技術を携えての落ち着き先と期待されたのでしょう。

延喜3年(903年)公のお亡くなりの日、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲が棚引きました。国司は公の御霊がお帰りになられたと、翌延喜4年(904年)この地の酒垂山に社殿を建立して松崎の社と号しました。

一族のトップの左遷と死で京の一族は相当更迭されており、一族の不幸であります。怨みを忘れないためのシンボルでもあるのは当然ですね。

菅公をお祀りしたお社は日本全国津々浦々に至るまで約1万2千社ありますが、当社の創建をもって日本最初の天満宮とし、北野天満宮(京都市)、太宰府天満宮(太宰府市)と共に日本三天神と称せられております。

道真公の無実、天皇への忠義を評価すること、怨みへの謝罪、一族の処遇、神威を頂くことなど、色々な意味で神社が各地に創建されたのでしょう。農村の天神社は、雷が雨を降らせることから、雷神への雨乞いや豊作祈願としてお祀りされていました。また、一族の土師氏は焼物、土木、建設、鉱工業などの専門家で地域に貢献し、民衆から尊敬されたのでしょう。
 
菅原道真公

 菅原道真公は御父を是善公と申され、御母は大伴氏で仁明天皇の承和12年(845年)6月25日京都の菅原院で御誕生。幼名を「阿呼」と申され、後の人はその徳を敬慕して「菅公」と称え、古くから文教の祖神として広く敬仰されて参りました。

菅公は幼少より文学に秀でられ、御年僅か5歳の時、庭前の梅花を見て「美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある」と詠まれました。

また11歳のとき「月夜に梅花を見る」の題で最初の漢詩を作られ、18歳で文章生、33歳で文章博士になられました。以来、学識愈々高まり誠直な政見によって時の宇多天皇の信任篤く、遂に55歳のとき右大臣に任じられ職務を全うされました。

学問の神様と尊崇されるはずです。

昌泰4年(901年)、藤原氏の陰謀により太宰府に左遷されることになり、公が旅立たれるとき「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と庭前の梅の花に別れを告げられたことはあまりにも有名です。延喜3年(903年)2月25日、太宰府でお亡くなりになられました。

天皇への怨みなど無く、忠義の内に亡くなりました。これを高杉晋作らが尊皇の志士として評価した訳です。

後世、南北朝時代、正統な天皇である後醍醐天皇への忠義を示した楠木正成を祀る神社の創建を真木和泉は考えましたが、久坂玄瑞は当地を考えたようです。実際には神戸の湊川にできました。この考え方が維新の戦いで倒れた志士を祀る招魂社などの創建につながったのでしょう。


全くの飛躍的解釈ですが、例の有名な道真公の歌、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」を改めて読み直すと、「梅の花達よ東方の都に危機がおこったら立ち上がりなさい、私がいなくても新時代が来ることを忘れてはいけません」と読めます。950年後を見通していたようです。高杉晋作はこの指令に気づき、自ら梅の花になったのでしょう。



参考

奇兵隊の守護神と奉納品




高杉晋作の筆跡、防府天満宮歴史館

高杉晋作の天神信仰、一坂太郎
防府が本州最後の寄港地と言っているが、長府上陸と下関横断はあった。




最古の天満宮である防府天満宮は土師氏の氏神であり、天神山麓に食い込む境内を持ち、土師は実は秦氏であることを想像させられる。



防府天満宮の祭神、菅原道真公は配流の途中、先祖の秦氏ゆかりの地を巡られた。