稲作農業の素人の考古学者の誤認識 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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考古学者の最近の学説に、渡来系弥生人は北九州と山口県西部辺りに限られ、その他の地域は現地の縄文人が稲作を覚えてそのまま弥生人に移行したと主張した。渡来系弥生人と縄文人の骨格の違いについては、食糧事情の変化で説明した学説を採用した。これに基づき、渡来系弥生人が大挙して来日したことは無いとの説を支持した。この主張は誤っていることをここで指摘する。

縄文人の弥生稲作移行説の研究者の誤認識(原著)
弥生稲作の水田の一角の土を調べてみたところ、水田ではなく休耕田が含まれていたと判明しました。結局、100の小区画のうち、水田はたった22区画だけだったんです。さらにDNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲でした。せっかくの水田で陸稲を栽培していた!?そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは焼畑などの雑駁農耕だったんです。これは曲金北遺跡だけでなく、全国の弥生遺跡に共通する特徴です。

反論
これは最先端稲作技術であり、渡来系弥生人しか出来無いことである。土地の地味を保つ為に休耕したり、品種を変える輪作をしたり、降水量や天候に合わせて水稲と陸稲の比率を変えることは、素晴らしい稲作技術です。今でこそ、品種改良され、水利も充実し、肥料や農薬も完備しているが、そうで無い当時を考えると、上記の弥生稲作は素晴らしいノウハウの塊であった。

溜池や水田が大々的に開発されるのは古墳時代後期の秦氏の渡来から、彼らの土木技術の貢献からである。条件の良い水田は今でも圃場整備(水路の付け直し、排水管の埋設、コンバイン用に牛道を拡幅するなど)されながら耕作されており、初期弥生時代の水田遺跡の苦労が偲ばれる。

渡来系弥生人の土井ヶ浜遺跡の人々は、山陰の水田には向かない丘陵縁辺部に水田を開いたが、ドングリも食料として居た。しかし、彼らは縄文人の血は一滴も入っていなかった。すなわち、在来の縄文人の生活と渡来系弥生人の生活は、考古学的に区別出来ない可能性があり、縄文人が弥生人に進化したとは言い切れない。綾羅木の延行条理遺跡の様な広大な水田を耕作する人々を渡来系弥生人の典型と思ってはならない。また、土器やアクセサリーなど生活用品などは海人族が南は九州から北は北海道まで交易しており、出土品で区別出来ない(土井ヶ浜人類学ミュージアムの冊子、2014発行)。

最近の別の研究では中国、揚子江下流域から直接、渡来して縄文人と混血していった説も有力である。地元の縄文人の抜歯の習俗が中国からの渡来人にもあり、人骨の特徴では区別がつかないとの指摘もある(参考)。

また、ある別の報告にあるが、縄文時代から弥生時代への移行が最初にあった北九州の松浦湾岸の遺跡が興味深い。自説の海人族安曇氏(北九州の縄文系漁労民)が渡来系弥生人を日本に連れて来て仲良く暮らした証拠であった(参考)。

青森の三内丸山遺跡は縄文人の集落として有名であるが、ここでは揚子江下流域の弥生文化が到達していた。しかしながら稲作だけは受け入れなかった事実があった(参考)。


参考


以下に下関市の綾羅木川周辺の弥生遺跡を示すが、現在の水田の範囲がそのまま弥生時代の水田の範囲である。しかし、現在、全ての田圃が青々と稲穂が実る風景をそのまま弥生時代に投影することは間違いである。この綾羅木川周辺は渡来系弥生人が最初期に開発した水田であり、開発し尽くした完成形であることである。

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下関市の綾羅木の延行条理遺跡、現在まで二千数百年も続く水田である。周辺には旧石器時代からの遺跡もあるが、ほとんどは弥生時代以降の住居跡であり、その上に我々現代人が生活している。

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延行条理遺跡の現状、綾羅木川以南は最近都市開発されたが、以北はそのまま稲作が続いている。この水田の東西一直線の水路は弥生時代から利用され、史跡に指定されている。北部の水田やその他の水田は最近、農林水産省の予算で圃場整備されたもので、以前はくねり曲がった原始的なものであった。中央の延行条理遺跡の水田のみが2千数百年以上の歴史を持つ碁盤の目を持つ最先端のものであった。

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綾羅木郷遺跡、延行条理遺跡の直ぐ北の台地は弥生人の住居跡(環濠集落もあった)と後の古墳時代の古墳がある。

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下関市立考古博物館の展示テーマ


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海人族安曇氏(縄文系漁労民)が渡来系弥生人を連れて来た学説(参考)


鈴木尚縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究後、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ形質を変えることになったと理解した。