宗像から出雲、京都北部の山陰文化圏 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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北部九州の宗像から東、響灘沿岸から山陰(島根から京都北部)は弥生時代から独自な文化を育て、特に弥生時代後期以降、特に極めて独自の文化圏を作っていた。


参考

1 九州の渡来系弥生人と山陰の渡来系弥生人は異なる出自を示唆している。

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山口県豊北町の土井ヶ浜遺跡の渡来系弥生人と北九州の福岡平野あたりの渡来系弥生人(参考)を一括り(オレンジ色)に扱っていたが、そうでは無いらしい。

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福岡平野(吉野ヶ里タイプ)の渡来系弥生人と土井ヶ浜タイプの渡来系弥生人は異なる形質の頭蓋骨を有する別種であった(参考)。

最近の調査で、中国山東省の遺跡で発掘された漢代の人骨資料の中に、土井ヶ浜人ときわめてよく似た形質をもつ資料が多く見つかっている(wikiより)。また、福岡平野の渡来系弥生人は、江南の春秋~前漢時代人よりも下肢骨が太く、江南人のほうがややスマートであるが、骨幹の横断面形など共通性は多い(参考)。

土井ヶ浜遺跡の渡来系弥生人骨は砂地の墓地から出土、福岡平野出土の渡来系弥生人骨は甕棺に入って出土する(土井ヶ浜人類学ミュージアムバンフレット)。


2 新たに弥生時代後期に目立って秦氏系渡来人が山陰に入植した。元々、人口密度が低く平和的に混住が進んだ。例外的に弥生人との摩擦を生んでいる。鳥取県鳥取市青谷町青谷の青谷上寺地遺跡は弥生時代前期後半に集落としての姿を現し、中期後半に著しい拡大を遂げ後期に続くが、古墳時代前期初頭に突如として姿を消す弥生人の集落遺跡がある。遺跡の東側の溝では弥生時代後期の100人分を超える約5,300点の人骨が見つかったが、うち110点に殺傷痕が見られた。また2点に脊椎カリエスによる病変が確認された。これは日本における最古の結核症例である(wikiより)。


ところで、綾羅木III式期(前期末頃)の綾羅木郷遺跡は、2~3重環濠に囲まれた集落が最大になった時期があり(以下参照)、秦氏系渡来人の入植が始まった頃に摩擦が無かったとは言えない。


3 東京国立博物館、特集陳列「本州最西端の弥生文化-響灘と山口・綾羅木郷遺跡-

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左)展示入口サイン、右)響灘沿岸部遺跡分布図

今回は、当館の収蔵品にはないため、普段お目にかけることができない展示品に注目して頂きたいと思います。

それぞれの見どころやまつわるエピソードをご紹介しつつ、弥生時代前期の響灘沿岸地方の人々がたずさわった朝鮮半島や山陰・瀬戸内地方との交流の歴史も考えてみたいと思います。

まず、綾羅木郷遺跡を有名にしたのは、なんといっても最初のガイダンス(響灘の弥生文化)コーナーに展示されている「土笛」です。
すぼまった上部に小さな口縁部をもつ中空の倒卵形で、高さ8センチにも満たない小さな土製品です。

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上)響灘の弥生文化[甕・壺(綾羅木III式)と土笛・武器形磨製石器・玉類]、下)土笛[正面・高7.1㎝]

口縁部の周辺をやや欠いていますが・・・、両手で持つとちょうど手の平にスッポリと納まる大きさです。

正面には四つ、背面には二つの孔が開けられ実に不思議な形をしています。

1967年、発掘担当者であった国分直一博士は、古代中国・殷代の礼楽器の陶塤(とうけん)に似ていることから口縁部を吹口、側面の孔を指孔とみて、農耕儀礼(?)に使った楽器の一種ではないかと考えました。

また、これを知った地元の画家・松岡敏行氏が粘土を焼いて製作した模造品で実験を行った結果、草笛に近い音色でメロディーを奏でることができることが判りました。ちなみに松岡さんは芸大・日本画のご出身で、卒業制作では当館で見た弥生土器と埴輪をあしらった静物画を描いたそうです。その後、復元品を松岡氏の個展で見て深く興味を覚えた、これまた地元の作曲家・町田洋氏が演奏活動やリサイタルを続け、1978年には(ついに!)LPレコード(東芝EMI)を出すなど、広く知られるようになりました。

さて、このような「土笛」は近年の発掘調査の進展で、弥生時代前期~中期にかけて響灘沿岸部や山陰・京都北部地方に広く分布することが判ってきました。

とくに山口県下関市周辺、島根県松江市から鳥取県米子市にかけての一帯、京都府峰山町などの丹後半島一帯の3地域で集中的に出土しています。なかでも、島根県西川津遺跡とタテチョウ遺跡では、それぞれ約20点も出土しています。

一方、西方の九州では福岡県福津市・宗像市域を西限として、いずれも響灘沿岸部に止まっています。

日本列島で最初に稲作文化が根付いた玄界灘沿岸より西側では、(なぜか・・・)出土していませんし、朝鮮半島でも未発見です。

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上)弥生時代前期 綾羅木式土器・土笛等 分布図、下)綾羅木式土器の文様[II式:山形重弧文・III式:貝殻重弧文]

そこで分布図を
よく見てみると・・・その分布範囲は独特な山形重弧文や各種の貝殻文で知られる「綾羅木式土器」の分布圏とピッタリ重なっていることが判ります。

どうも九州の響灘沿岸部から山陰の日本海側の弥生文化に共有されていた特有な文物で独自の儀礼を伴う稲作文化であった可能性も指摘されています。

日本最古の農耕文化が成立した玄界灘や有明海沿岸などの北西部九州地方とは異なった地域文化の存在と北東部九州と山陰地方の人々の交流が浮かび上がります。



次は、そのお隣の「磨製石剣・石鏃」を挟んで展示されている小さな玉類に注目してみましょう。ホントに小さな出土品(3は直径2mm!)ですので、ウッカリ見落としてしまいそうですが・・・。

実は今回の展覧会の“白眉”ともいえる存在です。

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左)装身具展示状況、右)勾玉・丸玉・小玉[上:アマゾナイト製、下:貝製]

まず、小さな白い貝製小玉は貝珠とも呼ばれ、二枚貝を加工して作られています。縄文時代晩期から弥生時代前期にかけて、朝鮮半島南部と五島列島、および北部九州や中国地方の一部に分布しています。
一般的な日本列島出土品より朝鮮半島南部出土品は大型で、響灘沿岸部の出土品はとくに繊細で小型といった地域性もあります。

一方、鮮やかな緑色の玉はアマゾナイト(天河石)という珍しい石で、朝鮮半島の青銅器文化にしばしば登場する石材です。獣形・半環状などの独特の垂飾類が発達しますが、綾羅木郷遺跡出土品は形態や石材が大変よく似ています。日本列島では弥生時代前期から中期にかけて、まだ10数例しか知られていません。

ほとんどが北部九州地方に偏って分布することも特徴で、大陸からもたらされた青銅器文化と共に運ばれてきた可能性が高い文物と考えられています。これらの玉類は、朝鮮半島と日本列島の人々の文化交流を如実に物語るものでしょう。


もう一つ、ケース中央に展示している二つの小さな土器に注目して頂きます。装飾的でひときわ大型の土器が多い綾羅木III式土器の中で、文様もなく(何の変哲もない?)かなり“地味~”な土器です。口縁部の対称的な位置に2孔一組の孔が空いた土器が無頸壺(4)で、口縁部に三角形状の突帯をもつカップ形の土器が無文土器(2)です(ホントにかわいらしい土器ですね)。

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左)綾羅木III式土器、右)無頸壺(4)と無文土器(2)

無頸壺は、北部九州から瀬戸内海地方で弥生時代前期後半に現れた土器です。中期に盛行することから、地方色が顕在化する中期弥生文化を象徴する存在とも考えられています。綾羅木式土器が分布する瀬戸内海地方との交流が背景にあったことがうかがわれます。

一方、無文土器はもともと朝鮮半島の青銅器~初期鉄器時代の農耕社会で使用された土器です。胎土は弥生土器と似ていますが、とくに甕形土器は指ナデで造るために凸凹(デコボコ)が著しく、弥生土器には見られない口縁部粘土紐や円板底の底部などが特徴です。弥生時代前期後半から中期にかけて、北部九州地方を中心に近畿地方まで分布し、渡来人の直接的な影響の範囲を示すものとして注目されています。


ところで、綾羅木III式期(前期末頃)の綾羅木郷遺跡は、2~3重環濠に囲まれた集落が最大になった時期で、近畿北部や四国北西部地方にまで綾羅木III式土器が拡がった時期です。綾羅木郷遺跡の人々がもっとも活動的であった時代といえるでしょう。

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左)無頸壺[高10.2㎝]、中)無文土器[高12.6㎝]、右)綾羅木壕遺跡の環濠集落(西部地区)

1974年、同じ前期末頃の福岡県師岡B遺跡の発掘調査では、弥生土器よりも多くの無文土器を使用する人々(渡来人?)の集落が営まれていたことが判明して関係者を驚かせました。また、少し後の中期初頭には、対馬海峡を挟む韓国・釜山の莱城(ネソン)遺跡で出土土器の90%以上が弥生土器という特異な住居跡も見つかっています。ひょっとして、中世の中国や東南アジアに建設された「日本人町」を彷彿とさせるもの(?)かもしれません・・・。

いずれの遺跡も日本と韓国で、在地の土器とは異なる(当時の)“外国”の人々が使う土器を多数保有する集落です。交流によって海を渡った人々の生活の痕跡が残された遺跡とみられ、相互に地元では手に入らない資源を求め、交易等を行っていた人々の姿が目に浮かぶようです。

これらの土器は、日本列島に稲作文化が急速に拡大するとともに、新しく大陸からもたらされた青銅器の生産が開始される時代に、綾羅木郷遺跡の人々のアクティブな活動をうかがわせる重要な“証人”でもあるということができます。


ややもすると、装飾豊かな土器や煌(きら)びやかな金属器にばかり目を奪われがちですが・・・、今回ご紹介したような小さな、ときに地味な造形の中には、しばしば当時の人々のダイナミックな活動がストレートに「記録」されていることがあります。

これらの「小さな造形」に秘められた当時の人々の活躍ぶりと、歴史の大きな“うねり”を感じ取って頂ければ幸いです(
参考)。


4 福岡県の宗像を境に、福岡平野系と山陰系に文化が分かれる理由の一つに、宗像海人の移動範囲に関わるかも知れない!宗像系海は,もっぱら手づかみ漁,弓射漁,刺突漁など潜水漁を得意とした。本拠を筑前宗像郡鐘ヶ崎に置き,筑後,肥前,壱岐,対馬,豊後の沿岸に進出,さらに日本海側では向津具半島の大浦,出雲半島と東進,但馬,丹波,丹後から若狭湾に入り,なお能登半島,越中,越後,佐渡に渡り,羽後の男鹿半島に及んだ。両系統とも,なかには河川を統上し内陸部へ進み陸化したものもあった(参考)。

5  弥生時代中期後葉から後期前半にかけては、墳丘規模に格差が広がり、墳長20メートル以上の大型墓が出現する。それらは首長・地域有力者の墓と推定される。また、中国地方北部や山陰、近畿北部に地域的特色を有する墳丘墓が築造されだした。この時期から次の時期にかけて石器から鉄器使用が本格化し始める。朝鮮半島南部で産出する鉄素材の流通機構の移行・再編が地方レベルまでおよび、首長層の政治的連合や同盟が、これまで以上に推進したと考えられる(wikiより)。