倭国と日本国 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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『旧唐書』倭国・日本国伝の記述は日本列島の向き以外は正しい認識である。すなわち、南方向は実は東と90度反時計回りに日本列島を回すと正しい日本列島になる以外はそのまま正しく理解していた。魏志倭人伝以来、東方向を南に誤認したままである(参考)。


倭国とは弥生時代、九州にあった倭奴国(ワのナの国)であり、九州島全体が版図と見なされていた。日本国は古墳時代以降の邪馬台国(女王国を含む)、すなわちヤマト国であったが、小国を併合して大倭(ヤマト)国になった。九州島を含め日本列島全体を版図と見なされている。日出ずる所にある上に、倭と言う字が雅でないので、すなわち日本(ヤマト、ニッポン)国としたと理解された。


この日本国が昔、倭大乱のあと倭奴国と休戦し、4世紀中頃、仲哀天皇の熊襲征伐のころ国王を県主とした(参考)。以降、6世紀の筑紫君磐井の乱などがあった程度である(参考)。九州全体については8世紀の隼人征伐(参考)がある位である。


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邪馬台国の版図、日本国を名乗った時代は版図を広げ、九州北半分と関東平野あたりまでが勢力圏として含まれよう!

ところで、毛人の国がであるが、東界(北方向)の外は日高見国か?北界(西方向)の外は熊襲国か?!東界については、卑弥呼時代の狗奴国との争い、崇神天皇の四道将軍の派遣があり版図を広げ、色々な乱の可能性や、8世紀以降エミシ征伐などの課題が残っている(参考)。


なぜ大倭国から日本国にしたのであろうか?中国は一貫して日本を倭国と呼び、これに甘んじて倭国とか大倭国とか自分を呼んだが、西暦663年、白村江の戦いに破れた日本は中国に媚びるのを止めて、正々堂々と日本国を自称し始めたのである!



参考


『旧唐書』倭国・日本国伝の和訳を引用する。


倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。


日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。



「東方の日出づる国」は古代より、ヘブライの民にとって、「天国」を意味している。約束の大地カナンは、「カヌ・ナー」の転聲としてヘブライ語で読むとき、「葦の原」を意味する。「東方の日出づる国」は、ヘブライ語で「ミズホラ」と呼ぶので、日本の古名である「豊葦原(トヨアシハラ)ミズホの国」の意味が判明すると指摘する研究家もいる。更に大和朝廷の「ヤマト」は、ヘブライ語アラム方言では「ヤ・ウマト」と分解され、「神の民」という意味になるという(wikiより)。



年表(参考)

630 遣唐使はじまる
632 新羅・善徳女王 即位
642 皇極天皇・35代 即位
645 中大兄皇子乙巳の変
645 孝徳天皇・36代 即位
648 倭国は新羅にことづけて上表文を送る
655 斉明天皇・37代 即位
660 百済滅亡
661 斉明天皇が崩御
662 天智天皇38代那国で即位 
663 白村江で大敗する
667 大津へ遷都する
703 日本国は粟田真人を使者とする


その他の年表


倭国大乱


卑弥呼は天照大神で九州の高天原(女王国)に居られた



九州の分権制度


西暦527年の筑紫君磐井の反乱を物部麁鹿火(あらかい)に『お前が行って討て、長門以東は朕之を制す。筑紫以西反乱汝之制せよ』と言って、ヤマト政権は反乱を鎮圧した。筑紫君葛子は糟屋屯倉を献上して死罪を免れた(参考)。この後、ヤマト政権は九州の博多に那津宮家を造らせたと日本書紀にある。


九州は遠いので分権したのであろう。そして、九州本土の防衛も現地の分権政府にゆだね、大宰府を内陸(.現在の大宰府跡)へ移し、水城や朝鮮式山城を建設して、防衛を日本書紀などにも記載してアピールした(参考)。


本州について、場所などは非公表であるが瀬戸内海から畿内にかけても朝鮮式山城を数ヶ所を建設している(wikiより)。


古代の本土防衛戦略


本土防衛の前線基地、見島


隋書東夷伝によると7世紀初頭、竹斯国より以東は、いずれも倭国(ヤマト政権)に附庸している。すなわち竹斯国、秦王国は倭国(ヤマト政権)に属している(参考)。