対馬海峡と日本海の境にある萩市見島の遺跡について | 日本の歴史と日本人のルーツ

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見島ジーコンボ遺跡は7世後半から10世紀初めまでの防人と亡命渡来人の墓の様である。

すなわち、663年、白村村江の戦いに敗れた古墳時代後期から平安時代にわたり、北九州から長門国に防人軍団を常駐させ、終末期の10世紀、関門海峡には唯一の防人軍団、豊浦団を残し、日本西門鎮守八幡宮などを創建した時代に終了した。

ちなみに、長門城(ながとのき)は天智天皇4年(665年)と天智天皇9年(670年)に長門国に築かれた古代山城の一つである。

墓の形式は積石塚という高句麗の墓制をもったものとされ「朝鮮半島の亡命帰化人が移り住んだとする大陸帰化人移住説」が有るが、同じ古墳群で蕨手刀が出土した。蕨手刀は古墳時代終末期の6世紀から8世紀頃にかけて東北地方を中心に制作され、東北地方から防人が派遣されたことを示唆している。防人が東国から徴兵された時期、その規模は全体で2000人程度を数えたという。

朝鮮半島や大陸からの渡海について、対馬、壱岐経由のほか、沖の島経由の海北道中、萩市見島経由が考えられる。見島の場合は対馬海流と、北からのリマン海流の交点であり、朝鮮半島東海岸経由で高句麗からの渡海に適している。

竪穴式古墳の存在や、追加資料にある須恵器と土師器が同時に出土したことから、さらに遡って白村江の戦い以前の渡来人によって築造された可能性がある。例えば山陰方面への渡来があり、中継地であったことが考えられる。


参考






萩市説明資料

国指定史跡
見島ジーコンボ古墳群
指定年月日昭和56年7月25日
所有者国・萩市
所在地 萩市見島
指定面積1.2ha

見島ジーコンボ古墳群は、萩港沖約45kmの日本海に浮かぶ見島にある考古遺跡です。本村の東、横浦海岸一帯に、長さ約300m、幅50mから100mにわたって分布しています。古墳の数はおよそ200、現在石槨を残しているものだけでも160はあり、このほかに破壊されたものや未発掘のものも相当数あると思われています。海浜の比較的大きな玄武岩の礫を利用して、封土を用いずに造った積石塚でその密度は、全国でもまれにみる集団古墳群です。この古墳群は7世紀後半から10世紀初頭にかけて造られたもので、被葬者は地理的位置からみると、このころの対外関係のための前線基地として駐留していた比較的身分の高い人々の墳墓ではないかと考えられています。

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昭和59年4月10日(山口県教育委員会告示 第2号)
(追加指定)須恵器、土師器、緑釉陶器破片、鉄刀残欠、刀子、鐔破片、鉄鏃、石製カ帯、勾玉


ジーコンボ

ジーコンボとは、土地の言葉で「爺」 「婆」のことを「じいこう」 「ばあこう」というところから、祖先の意味だという説がある。 この古墳群は、墓の内部の構造が竪穴式石室、横穴式石室、箱式石棺の三通りに分けられる。 それぞれ、ほぼ地域的にまとまっており、造られた時期にも差がある。 埋葬されている者については、島内の居住者とは考えられず、墓の数が多いことや出土した武器類、装身具類、銅銭、土器類などから、当時の朝鮮半島の国新羅の侵入に備えて、中央の文化を持ってこの島に駐留していた武人の集団であったと考えられている。見島ジーコンボ古墳群 - 山口県の文化財


追加(参考)

室町期、朝鮮政府の要請により、足利義満が大内義弘に「三島倭寇」の討伐を命じている。この朝鮮を脅かした「三島倭寇」の本拠地・「三島」については見島に比定する説があり、その裏づけとして、『海東諸国記』中の地図には長門沖には「箕島」と書かれた大きな島が見える。見島と朝鮮半島との関係では、ほかに、応永三年(1469)に見島の勢力と思われる「長門州三島尉伊賀羅駿河守藤原貞成」なる者が朝鮮政府に遣使し、その後、津和野の吉見氏が朝鮮政府に対し「三島守」を名乗って図書を受け取っており、見島が朝鮮に知られた貿易の拠点であったことがわかる。 

戦国期、見島を領した益田氏も虎皮など朝鮮の産物を入手したり、対馬の宗氏と直接交流するなどしており、見島を基点とした朝鮮海域への関わりが想定される。