高良大社、久留米市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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倭国大乱、仲哀天皇の熊襲征伐、筑紫君磐井の乱などの戦乱の舞台で、今ある高良大社は大和政権の現地支配基地であったと思われる。境内には太古からの信仰の跡があるとか!北九州の弥生文化の中心だった拠点を大和政権が押さえたと想像される。

社伝によると、673年(天武天皇2年)仏教が高良山に入り、高良の神・仏教帰依の託宣を下すとある。また、役小角の開山とすると7世紀後半の社殿創建となる。白村江の戦い(663年)の敗戦後、太宰府の後方(南側)の待ち受け基地の役割も期待されたと思われる。


参考

福岡県久留米市にある。東西30Kmに連なる耳納連山の西の端にある、高良山(312m)の中腹に鎮座している(参考)。

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筑後国三井郡 高良玉垂命神社
境内 筑後国三井郡 伊勢天照御祖神社
御祭神
高良玉垂命
配祀 八幡大神(応神天皇、神功皇后) 住吉大神
合祀 豊比咩大神
創建 西暦400年

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筑前、筑後の中央部(赤ポツが神社)

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境内は嘆きの壁を持つ典型的な秦氏の神社

仁徳天皇55年(368年)の鎮座ともされるが、山内の出土遺物は太古の時代にまで遡り、その信仰の古さをみせる。御井の地名由来の山麓井泉群や奥宮の霊水、馬蹄石などの磐座群に太古の自然信仰の痕跡をみせ、神籠石の名称由来ともなった神域の列石の謎は、歴史のロマンを誘う。

中世の神仏習合期以降は山岳密教の霊山として栄え、のちには天台の一千僧徒が奉仕し、山内には二十六寺三百六十坊を数えたという。

高良山は耳納連山が筑紫平野に突出した先端。景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、神功皇后の山門征討では麓に陣が敷かれた。また、磐井の乱において最後の戦さの舞台となる(参考)。


wikiによる説明を読むと、久留米市の高良大社が大和政権の九州支配の中心地であることが理解できる。かつての倭国大乱の中心地であり、高良大社は反乱を抑える為の基地であり、付近の地域には畿内からの入植者がいる。

① 高良大社が三種の神器、「干珠・満珠」の宝珠や七支刀を所蔵

② 高良大社の神職は丹波・物部・安曇部・草壁・百済の五姓

③ 中世末期に成立した高良大社に伝わる高良記によると高良大神の孫の子孫に「皇」(すめろぎ)や「連」(つら)などと言った称号を持った者がいる

④ 高良大社の祭神高良玉垂命は、竹内宿禰と言われている。武内宿禰の子供達の名前の地名がこの一帯に散らばっている。羽田(波多)、肥前基肄郡基肄(紀)、肥前佐嘉郡巨勢(巨勢)、肥前三根郡葛木(葛城)、曾我(蘇我)、平群(平群)。また、高良山近くの武雄は武内宿禰の父の名である。


渡来人秦氏が居住する地域候補筑後国御井(みい)郡がある。さらに、近くの甘木・朝倉あたりに畿内と同じ地名があるが、畿内から秦氏が入植した可能性がある。現地の伝承では、新羅からの帰化人や物部氏が入植したとある(参考)。


築後川流域でもかなり堤防や堀のようなものを造って壊された痕跡がある。また何の目的で作られたかわからない巨大な溜め池が、あちこちにあるとか(参考)、、、これらは国内の騒乱の結果であり、倭国大乱から磐井の乱までの戦いの残骸とか、または白村江の戦いの敗戦後における現地民と大和からの派遣兵(秦氏や防人)との摩擦の結果と思われる。


近くの祇園山古墳からは3世紀後半の画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が出土しており、畿内からの入植者の墓であろう(参考)。












▲古代
古代の遺物として、山腹の数ヶ所(杉ノ城趾、永勝寺、下宮社、高隆寺跡)から奈良期の「布目瓦」が出土と云う。また、これらの地域からは平安期の瓦も出ており、奈良期後期から神宮寺である高隆寺に、伽藍が造営されたことが明確であり、平安期から中世にかけては、高良山は神社というより高隆寺が隆盛を極めていた様が窺える。
▲高良社の創建について、
社伝の類(「高良玉垂宮縁起」)では、仲哀天皇8年、高良社創建とする。一方、高隆寺については、「高隆寺縁起」では、白鳳12年に堂宇を作り、高隆寺(太神宮寺)と称すると云う。高良神社の初見は、「延喜式」(平安初期)で、「筑後国四座大二座小二座」とあり、「三井郡に高良玉垂命神社、豊比咩神社、伊勢天照御祖神社の三社、御原郡に、御勢大霊石神社一座」とある。「久留米市史・第一巻」では、高良山の創建は8世紀初期以前、高隆寺の創建は、天平勝宝年間(8世紀半ば)以後とする。高隆寺については、高良山から奈良後期の瓦が出ることから、その存在は推定できる。高良社は、上宮から発生したのか、下宮が先であったのかも明らかではなく、考古学史料も、8世紀以前に溯るものは発見されていない(参考)。


祭神の高良玉垂命は武内宿禰であり、蘇我氏が祀っており、海人族安曇氏の神社だった(参考)。