初期秦王国の王イツツヒコの品か!蓋弓帽 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関の稗田地蔵堂遺跡(川中地区、弥生時代中期後半)から出土した蓋弓帽が、イツツヒコの初期秦王国の王の印か? → 正解でした(当時、斉系弥生人の国で東鯷国と呼ばれていた。2015/08/05、参考)。

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蓋弓帽、弥生時代中期

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鏡、下関市考古博物館蔵


参考



女王国、邪馬台国

地蔵堂遺跡

以下、、下関の邪馬台国研究家のブログからそのまま、コピペしました(引用)。

稗田地蔵堂遺跡から出土した 蓋弓帽 とは何か

(下関市立考古博物館 「 綾羅木郷遺跡って、どんな遺跡!? 」 より)

弥生中期後半になると、平野を見渡す台地上に土盛りされたお墓(墳丘墓)が築かれるようになります。 稗田地蔵堂遺跡や綾羅木郷台地の西端にある若宮古墳周辺の墳丘墓がその代表です。 稗田地蔵堂遺跡では箱式石棺に前漢鏡 1 面と金銅製の蓋弓帽 2 点が副葬されてました。

蓋弓帽というのは、馬車にさしかける傘の骨の先端につける飾り金具で、日本列島では稗田地蔵堂遺跡でしか発見されていません。※ 東京・出光美術館に所蔵されている伝楽浪出土遺物中に同形品がみられる。

前漢鏡も蓋弓帽も現在の朝鮮民主主義人民共和国の平壌(ピョンヤン)付近と推定されている楽浪郡からもたらされたものです。楽浪郡というのは、前漢(紀元前202~紀元8年)の武帝が朝鮮半島を直接支配するため紀元前108年に設置した四郡のうちの一つです。

楽浪郡のお墓には馬車に伴うさまざまな道具(馬車具)がセットで副葬されていて、稗田地蔵堂遺跡の場合と異なっています。

このことは、まだ日本列島に馬車を使う風習は伝わらず、本来は馬車の道具であった蓋弓帽がその本来の役割を失って、首長(リーダー)の権威を裏付けるための道具(威信財)とみなされていたことを示しています。稗田地蔵堂遺跡の副葬品に見られる前漢鏡と蓋弓帽の組み合わせは、この地域のリーダーの墓にふさわしいものと言えるでしょう。

日本国内で、楽浪郡地域由来の物が出土した場所は10か所ぐらいある。壱岐・対馬、吉野ヶ里、糸島、出雲、奈良県などから、楽浪郡地域の土器、楽浪郡地域の剣、楽浪郡地域の鏡が出土して、マスコミ報道を賑わせている。しかし下関の 稗田地蔵堂遺跡 から出土した蓋弓帽は、中国の王族または楽浪郡の臣下を意味するものであり、他の物とは一線を画する特別な物である。

下関の遺跡から出た蓋弓帽は志賀島の金印と同じくらい重要な意味を持ち、本来はもっと値打ちあるもので、国宝に値する。

※ 蓋弓帽 (がいきゅうぼう)
馬車の傘の骨の先につける飾り金具

Google で検索して下さい。 

[綾羅木の考古博物館  前漢の身分の高い人] 

蓋弓帽が意味する 徐福 と 邪馬台国の位置 !!!!!!

下関の遺跡(B.C.1世紀~)から出土した 蓋弓帽とは何か

下関市立考古博物館の見解は、この地域の首長の威信財。 ローカルな田舎者の持ち物

素人の古代史愛好家の見解は、ただの威信財ではなく、
蓋弓帽 = 漢委奴国王の金印
蓋弓帽 = 徐福
蓋弓帽= 邪馬台国
で、統一前であるが 倭国王の証明品!!!!!!!!

ほかに綾羅木郷遺跡からの出土品として有名なものに、
人面土製品 ― 阿曇目か、魏志倭人伝記述の刺青か
土笛(陶塤 とうけん) ― 島根県から多く出土する
がある。
陶塤は中国の殷の笛といわれるが、壱岐 原の辻遺跡からココヤシ製が出土しており、南方系説も考えられる。