魏志倭人伝の解釈、邪馬台国九州説の問題点 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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九州王朝論では邪馬台国は九州内にあったと言う。一字一句、原文を変更せずに解釈したと言う。


しかし、魏志倭人伝の和訳(参考)に次がある:   帯方郡より邪馬台国までの方向、距離から推し量ると、倭国の首都、邪馬台国の位置は、会稽、東冶(共に揚子江下流付近の都市)のほぼ真東に当たります。 


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日本列島を時計回りに90度回転すると、だいたい合う。福岡市内ではありえない。

この文章を完全に無視している。九州王朝論者の主張は正しく無いことになる。


邪馬台国「甘木・朝倉説」を主張されている安本美典氏も同様に無理がある(参考)。その他、九州説は邪馬台国の候補地が乱立して互いに否定しあっており、大和説の見直しが正しいことを示唆している。


邪馬台国「下関」を主張して居られる方は結果的には邪馬台国内に含まれており、正しかったと評価している。



参考


東西方向を南北に回転させるだけで、一字一句変更無しに解釈して、邪馬台国はやはり大和にあった


弥生時代後期から古墳時代においては山陰地方は朝鮮半島からの渡来人で人口が膨らんでいた


九州王朝説は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったとする説である。本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める所論である。古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹国(邪馬臺国)」は倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている(wikiより)。


古田氏は、「邪馬壹国」は福岡市に存在した、という。その国の支配領域=倭国は、九州から壱岐・対馬を経て朝鮮南岸にまたがる海峡国家であった。(この朝鮮半島南端の倭領がいわゆる「任那」であるが、もちろんこれは大和朝廷のものではない。)


一字一句たりとも原文を改定することなく、史料を忠実に解読したこの結論は、また、考古学の成果ともよく合致している。福岡には、縄文末期の水田(板付遺跡)をはじめ、弥生時代の銅鉾の鋳型、弥生遺跡から出土した中国産の銅鏡、中国産の絹の大部分と、国産の絹の全てが集中して出土しているのである。(参考)


太宰府は見せかけの防衛拠点


外国から伝染病が入って来るのは古墳時代からであり、奴国が先駆けて朝貢した程度で、弥生時代までの九州は中国と交流していません。


古墳時代を築く秦氏系渡来人の存在、例えば、195に百済から蚕種が渡来人と一緒に来日(wikiより、参考)したことを混同している。