倭国大乱の前、倭国王とは? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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倭国大乱の起こったころ、すなわち卑弥呼の擁立前、約80年前に倭国王に帥升がおり、後漢書によると生口(奴隷)160人を中国に献上したとか。倭面土国王との記載も別の書にある。

面土国をどのような国に解釈するかが問題となる。当時、大和朝廷(邪馬臺国)は存在していた。すなわち、弥生時代後期、山陰地方に入植していた斉系弥生人と渡来人秦氏は東は大和、西は北九州(宗像より南西)に至ろうとし、北九州から大和に至る瀬戸内海回廊でも摩擦を起こし倭国大乱となっていた。

従って、面土国が邪馬臺国か、敵対している呉系弥生人の国かのどちらかになる。大和では唐古鍵遺跡、北九州では吉野ヶ里遺跡が邪馬臺国に対抗して大きな争いがあった遺跡を残している。

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北九州北東部が邪馬臺国(宗像女王国になる、参考)

さらに、後漢書の倭について倭国王師升のことが書かれていて、倭国王の所在地は倭国の極南界としている

最近の研究(2015年7月24日)成果によると、後漢に朝貢するのは同族の呉系弥生人の国であり、倭国王帥升は吉野ヶ里か奴国の王である。方位が正しいとすると極南海とは吉野ヶ里あたりであろう(参考)。吉野ヶ里遺跡辺りに面土国を比定した場合、生口160人は邪馬臺国の兵士か!ところで、当時、東鯷人とは邪馬臺国人のことである(参考)。


参考

山陰、出雲は邪馬台国であつた





倭国と日本国

中国の史書に出てくる最初の日本の個人名は、後漢書東夷伝に出てくる倭国王・帥升だ。彼が中国に遣いを送ったのは、西暦で107年で、魏志に出てくる倭国大乱の卑弥呼よりも約50年以上(80年?)前のことである。

安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。(後漢書東夷伝)

後漢書以外にも貴重な記載がある。「安帝の永初元年、倭の国王帥升等」の部分が、『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」とあり、唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」とあり、北宋版『通典』には「倭面土王帥升」とあることである。 

そして、この倭国王は中国から印綬を貰った形跡が無いのだ。これは、西暦57年の倭奴国王や西暦3世紀の邪馬台国王に印綬が送られたのとは対照的である。つまり、この両者よりも中国からの待遇が悪いのだ。

この『面上国』あるいは『面土国』とは、どこにあったのだろうか?代表的な推定値をここに上げておきます。 

福岡県みやま市山川町清水 面の土
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町吉田目達
佐賀県三養基郡米多

『先代旧事本紀』の国造本紀に、「筑志米多国造 ( つくしのめたのくにのみやつこ )」という記載が出てくるが、おそらく、佐賀県三養基郡米多郷が所在地だったと思われ、このあたりは吉野ヶ里遺跡の近くでもあり、筑後平野一帯が支配地域だったのでは?と思われる。「面土」は上古音、中古音から想像して「メタ」と発音するのが正しいと思われる。よって、「筑志米多国」こそ、「面土国」の後継国なのでは?と思われる。 

参照:『先代旧事本紀』国造本紀・九州地方(参考)

魏志倭人伝で王のいる国として記載されている国は邪馬壱国、伊都国、狗奴国で、面土国は無い(参考)。面土国を吉野ヶ里遺跡あたりと仮定すると北九州内の一小国であり、倭国を代表する力は倭国大乱の中で消滅したことになる。

当時の倭国と日本列島(参考)