記紀の記述にあやかった観光目的のお話しもあるとは思える。しかし、倭国大乱の地、すなわち弥生時代の人口密度の高い地域で大和政権に従わない地域を巡っている様でもある。古事記では、岡田宮で1年、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごしたとある。
弥生時代後期の瀬戸内海の高地性集落を制圧する旅が神武東征とも受け取れる!
これら神武天皇ゆかりの地は古墳時代の前方後円墳も積極的に築造し、三角縁神獣鏡も副葬しているケースが多く、大和政権に服従していることが伺える。
前方後円墳の分布(参考)、東日本については崇神天皇の活躍の結果
記紀の記述は征服者としての大和政権の力の誇示がある。さらに、伝承を伝える神社などは征服者側の氏子が地元支配の根拠として、または被征服者側の服従の証しとして建立されたと推定される。例えば、南九州の天孫降臨神話、神武天皇誕生伝承などがある神話の故郷は、実は摂関近衛家の島津荘、宇佐領、八条女院領の国冨荘など全国稀有の荘園国であった(参考)。和気清麻呂公は大隅国に配流されたことがある(参考)。また神話に基づく神社の建立など活発化するのは、明治維新後の国家神道の確立のためと見られる(wikiなど)。
霧島神宮、宮崎大神宮、都農神社、高千穂神社、天岩戸神社、クシフル神社などは皆、隼人族では無く渡来人秦氏(支配者、大和政権)側の建立の神社形式であった。天孫降臨神話などを宮崎県や鹿児島県内に集め、正しい場所を曖昧にして神秘化したのも、筑紫の日向を日向国に誤解させたのも大和政権による意図的なものであろう。創建時期の明らかな古社は無かった(参考)。
神武天皇の親である従来の日向三代の陵は鹿児島県と宮崎県に候補地が複数あって互いに否定しあっている。
参考
広島県内その2(参考)
神武天皇の大和行き経路(参考)
神武天皇の大和行き経路その2(参考)
神武天皇の大和内の行動(参考)
九州島での神武天皇の伝承(参考)