下関市考古博物館、平成24年企画展、ヤマト王権と地方豪族
上の古墳の分布を見ると、豪族と呼ばれ前方後円墳を築造しているのは瀬戸内海側である。下関市内を除き、三角縁神獣鏡などをもらっている。すなわち、前方後円墳はヤマト政権中央と、周辺の弥生人豪族の王が建造し、三角縁神獣鏡も然りである。
ところが、山陰側には何もない!渡来人は当時、多く入植していたのに!下関市内の前方後円墳には三角縁神獣鏡が出土していない!実は、ヤマト政権と同族であり、一般庶民には前方後円墳も三角縁神獣鏡も必要無かった。さすが山陰側の王、イツツヒコの子孫は前方後円墳を下関市内に築造したが!
参考
関裕二 - 2003 - の本の要約: なぜ出雲は、「ヤマト=前方後円墳」を拒絶したのだろう。そして山陰地方の弥生遺跡は、なぜ、ヤマト建国とほぼ同時に、消滅したのであろう?、、と疑問を投げかけている。答えは簡単である。山陰地方はヤマトと同族であり、自由な文化を楽しめたのである。前方後円墳は服従の印であり、ヤマトの一族には不要であった。