山陰は前方後円墳が無い、どうして! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山口県内の主要前期・中期古墳
下関市考古博物館、平成24年企画展、ヤマト王権と地方豪族

上の古墳の分布を見ると、豪族と呼ばれ前方後円墳を築造しているのは瀬戸内海側である。下関市内を除き、三角縁神獣鏡などをもらっている。すなわち、前方後円墳はヤマト政権中央と、周辺の弥生人豪族の王が建造し、三角縁神獣鏡も然りである。

ところが、山陰側には何もない!渡来人は当時、多く入植していたのに!下関市内の前方後円墳には三角縁神獣鏡が出土していない!実は、ヤマト政権と同族であり、一般庶民には前方後円墳も三角縁神獣鏡も必要無かった。さすが山陰側の王、イツツヒコの子孫は前方後円墳を下関市内に築造したが!

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弥生時代後期、出雲と畿内の土器の形式が相似であり、四道将軍の派遣があった瀬戸内海と北陸が似ているとか!

出雲あたりは自由奔放な文化を楽しんだ、古墳時代に入っても無風状態であった。すなわち、大和政権と同族であり、特別な干渉が無かった証しである。四道将軍の派遣なども無い。参考にした「但馬国府・国分寺館ニュース第23号2011.3」報告書を新しい観点で俯瞰すると興味深い結論が得られる。


参考



初期秦王国(イツツヒコ王国)の領土は、元々、畿内と同族で争いが少なく、その分、纒向型前方後円墳や三角縁神獣鏡などを必要としなかった(参考)。

関裕二 - 2003 - ‎の本の要約:  なぜ出雲は、「ヤマト=前方後円墳」を拒絶したのだろう。そして山陰地方の弥生遺跡は、なぜ、ヤマト建国とほぼ同時に、消滅したのであろう?、、と疑問を投げかけている。答えは簡単である。山陰地方はヤマトと同族であり、自由な文化を楽しめたのである。前方後円墳は服従の印であり、ヤマトの一族には不要であった。