防人軍団、豊浦団 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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白村江の戦いの敗戦後に配備された防人軍団は九州だけではなく、山口県下関市長府や萩市見島にも配備され、九州配備が解除された後まで存在した。

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忌宮神社、長門国府跡

参考

長門国の長府に豊浦団が最期まで存在した

防人の墓、ジーコンボ遺跡、萩市見島

関門海峡を守る西門鎮守八幡宮

防人(さきもり)は、663年の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。もとは岬守(みさきまもり)と呼ばれたが、これに唐の制度である「防人」の漢字をあてた。

中国の組織と同様、任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。太宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫の諸国に配備された。加えて、出土文字資料においては2004年に佐賀県唐津市の中原遺跡において「防人」の墨跡を持つ木簡が出土しており、肥前国にも配置されていた可能性がある。 当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。中原遺跡からは2005年には甲斐国(山梨県)出身の防人の存在を示す木簡が出土しており、2007年には「相模型杯」と同型の食器用土器が出土し、相模出身の防人がこの地域に派遣されていたことをうかがわせる。

757年以降は九州からの徴用となった。奈良時代末期の792年に桓武天皇が健児の制を成立させて、軍団・兵士が廃止されても、国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止を先送りした。実際に、8世紀の末から10世紀の初めにかけて、しばしば新羅の海賊が九州を襲った(新羅の入寇)。弘仁の入寇後には、人員が増強されただけではなく一旦廃止されていた弩を復活して、貞観、寛平の入寇に対応した。

院政期になり北面武士・追補使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人の規模を縮小し、10世紀には実質的に消滅した。1019年に九州を襲った刀伊を撃退したのは、太宰権帥藤原隆家が率いた九州の武士であった(wikiより)。

白村江の戦いの敗戦処理、防衛拠点の太宰府