高良神社と高木神社、筑後国 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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高良大社の由緒では、仲哀天皇、神功皇后の熊襲征伐後の仁徳天皇の時代に高良玉垂命が、先住の地主神の高木神に代わって鎮座したとか!まさに、熊襲の地の筑紫を大和政権が支配したことを示唆している。

社伝によると、673年(天武天皇2年)仏教が高良山に入り、高良の神・仏教帰依の託宣を下すとある。また、役小角の開山とすると7世紀後半の社殿創建となる。白村江の戦い(663年)の敗戦後、太宰府の後方(南側)の待ち受け基地の役割も期待されたと思われる。高木神を祀る高樹神社も記録に現れるのは878年であり、7世紀後半から9世紀の間に社殿が整備されたのであろう。

旧の熊襲の地、筑後平野は高良大社の末社の高良神社系の神社が分布し、熊襲が信仰した高木神は東側の遠賀川流域の渡来人秦氏の地域に押しやられた分布になっている。


参考

① 高良大社、福岡県久留米市御井町1番地

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祭神
高良玉垂命、八幡大神、住吉大神

仁徳天皇55年または78年鎮座、履中天皇元年創建と伝えられる。

式内社・名神大社で筑後国一宮である。福岡県久留米市の高良山にある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。主祭神の高良玉垂命は、武内宿禰説や藤大臣説、月神説など諸説あるが、古えより筑紫の国魂と仰がれていることから饒速日尊と思われる。筑後一円はもとより、肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰圏を持つ。高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する(参考1参考2)。

奥の院入り口(鳥居横)の解説板に: 高良大社奥宮(奥の院) 古くは「高良廟」、「御神廟」と称し高良の神である武内宿禰の葬所と伝えられていた。高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。付近の地名を「別墅(所)」といい、白鳳7年(678)開山隆慶上人が、毘沙門天(高良の神の本地)を感見して毘沙門堂を建て、天竺国無熱池の力を法力で招き寄せたのが、この清水であるという(参考)。


② 高良大社の祭神について

高良玉垂宮の祭神玉垂命は武内宿禰であると云われ、玉垂宮大祝家所蔵の「玉垂宮縁起」にも、高良山座主家所蔵の縁起にも、高良山第五十五世伝雄の著した「高良玉垂宮略縁起」にも、其の他多くの中にも同様に記されてある。従って俗間でも玉垂命即ち武内宿禰と普く信ぜられて居た。併し学者の間には是に疑問を抱いて綿津見神(海神)説、藤大臣連保説、阿曇磯良麻呂説、神功皇后説、物部膽咋公説、国乳別皇子説等、多くの異説を述べているが、近来最も有力の説として重んぜられるのは、彦火々出見尊説である(参考)。

注: 彦火火出見尊の妻の豊玉姫は安曇系であり、安曇磯良(武内宿禰)の系統であることは間違いない(参考)。


③ 綿津見神説(参考)、やはり安曇氏の神である。


④ 高良神社群は筑後国に分布し、高良大社の末社であった(参考)。嘆きの壁形式の境内を持たない、現地支配の出先機関であろう。

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⑤  高木神社(嘉麻市小野谷1580番)(参考)
祭神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於いては当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。各地にある大行事社今は皆高木神社という。」とある。

以下はその高木神社であろう。
高木神社 田川郡添田町大字津野6717番の1
高木神社 田川郡添田町落合3583番
高木神社 田川郡添田町津野2227
高木神社 田川郡大任町大行事118番
高木神社 田川郡大任町大行事2496-1
高木神社 嘉麻市熊ヶ畑1075番
高木神社 嘉麻市桑野2588番
高木神社 嘉麻市小野谷1580番
高木神社 嘉麻市桑野1399番
高木神社 嘉麻市平217番
高木神社 久留米市田主丸町豊城1088番
高木神社 宮若市黒丸1572番
高木神社 京都郡みやこ町犀川上伊良原字向田308番
高木神社 京都郡みやこ町犀川下伊良原字荒良鬼1594番
高木神社 築上郡築上町船迫字水上1133番
高木神社 筑紫野市大石字上ノ屋敷569番
高木神社 筑紫野市天山字山畑241番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原鼓978-8
高木神社 朝倉郡東峰村宝珠山24番
高木神社 朝倉郡東峰村小石原655番
高木神社 朝倉市佐田377番
高木神社 朝倉市黒川1806番
高木神社 朝倉市黒川3328番
高木神社 朝倉市佐田2953番
高木神社 朝倉市江川1201-1
高木神社 朝倉市杷木白木172番
高木神社 朝倉市杷木赤谷744番
高木神社 朝倉市杷木松末2784番
高木神社 朝倉市須川1683番

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高木神社の分布は筑後平野の東側に押しやられた分布


⑥ 高樹神社(たかきじんじゃ)(参考)
福岡県久留米市御井町神篭石121 旧筑後国 御井郡

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祭神 高皇産靈神
式外社 高樹神 久留米市高良山中高樹神社

由緒
祭神は高皇産霊神(造化の三神の一)。古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶二年(八七八)十一月十三日の条に「筑後国高樹神ニ従五位ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが、天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。

もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。


⑦ 高皇産霊尊:たかみむすびのみこと
別名
高御産巣日神:たかみむすびのかみ
高木神:たかぎのかみ
高魂尊:たかみむすびのみこと
高御魂命:たかみむすびのみこと
天高御魂乃尊:あめのたかみむすびのみこと
別高皇産霊尊:わけたかみむすびのみこと
高御牟須比命:たかみむすびのみこと

高御産巣日神が天孫降臨神話等、天照大御神を中心とした「高天原系の神話伝承」に多く登場し、 神産巣日神は、須佐之男命、大国主神を中心とした「出雲系の神話伝承」に天神として数多く登場するのが特徴。

出雲国譲り、天孫降臨、神武東征では高天原の最高神・司令神として采配を振るう。『古事記』においては、出雲国譲りの途中から、高御産巣日神ではなく、 高木神の名前が使用される。これは天照大御神が「日」神の最高神であることを強調するためか。 あるいは代替わりしたのかもしれない(参考)。


⑧ 春日市の春日神社も白村江の戦いの敗戦後に創建された。






11 高良大社、高樹神社とも渡来人秦氏がお祭りする神社である。

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高良大社の境内、嘆きの壁形式の境内(参考)

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麓の高樹神社の境内、嘆きの壁形式の境内(参考)


注: 推測であるが熊襲の信仰する高木神を後から渡来した秦氏(大和政権)がお祀りして、融和をはかったのであろう。高木神社や鷹見神社が集まる遠賀川流域は渡来人秦氏の領域であった(参考)。

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鷹見神社群、その他、高見神社もある。


注: 高良神社系については、平地の非嘆きの壁形式の境内を持つ神社が多く、現地民の神社と考えて良かろう。

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高良玉垂命神社、平地の境内(非嘆きの壁形式)

筑後平野にあっても、嘆きの壁形式の玉垂宮があった、新たに入植した支配者側の神社か?

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玉垂宮、嘆きの壁形式