向津野大済(むかつのおおわたり) | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

テーマ:
山口県長門市の向津具半島の地名、向国郷について、角川地名大辞典では: 平安期に見える郷名「和名抄」長門(ながと)国大津郡九郷の1つ高山寺本の訓は「无加豆久邇」、東急本は「武加津久爾」油谷(ゆや)湾を隔てた半島部に比定されることから,向こう側の地を意味するか現在の油谷町向津具上(むかつくかみ)・向津具下(むかつくしも)付近に比定される。郷域内に平安末期、向津奥(むかつく)荘が成立した。

{BCB7C61A-294F-49D1-8C59-785C206D8A93:01}
向津具半島

なお、岡県主熊鰐が神功皇后に東門の護りと説明した「向津野大済」(日本書紀仲哀天皇8年正月壬午条)を当郷に比定する(地理志料・書紀通証・長門辺要志)。


西門の護りは岡県主熊鰐は神功皇后に名護屋大済(なごやのおおわたり、北九州市戸畑区の洞海湾入口)と説明した。

{8FEED0BE-CD69-4F5E-8F9B-94643A4CEA76:01}
名護屋崎、戸畑区の洞海湾入口

{E229E291-64F2-45E6-A9E4-53888914306E:01}
名護屋大済を西門となすと説明


参考

{6C64DC17-7DD2-4477-8793-9196890A62B2:01}

これに対し、東門の護りを「和名抄」に見える豊前国宇佐郡向野郷(現大分県宇佐市)とする説もあるが、無意味である。周防灘側は三韓征伐に向けた朝鮮半島に対する護りに成らない。 (北端が東門となる。すなわち、西方向を北と言い張る例がある)





{9BC247C8-F5DF-44E2-A661-21E1C79FE7B1:01}
向津具半島

{8FB1DE05-108D-4045-801F-9A0B87C5EA26:01}
楊貴妃の里、大陸から容易にアクセス出来ることの証

{5CFA3C94-838B-4452-9FDB-9E8885EA68A1:01}
油谷津黄

{4314449F-58ED-4BE4-9A10-71ADA87DA68B:01}
日本のアマルフィ海岸