須佐湾を西の上空から東方向に鳥瞰、左上が高山、中央が須佐湾
須佐之男命が出雲の国から朝鮮半島へ渡るとき山頂に立って半島を遠望されたと伝えられ、山口県北浦海岸の最高峰で航海の目印です。高山(神山): 標高533メート、日本海に突出した半島部にそびえる高山は、昔から航海の目印とされていた。 須佐之男命が朝鮮半島(当時新羅)に往来したとき、この山に登り海路を望んだので、 高山(神山)と云われたと伝えられている。この須佐之男命が来た神話から、町の名前を須佐とした!
「高山(こうやま)」は磁石を狂わせる天然記念物磁石石で有名で、須佐之男命が海に出て帰りが夜になり辺り一面が暗く帰る方向がわからなくなったが、 須佐には高山という山の頂上に磁石石があり手元にあった方位磁針が須佐にさし、須佐に着いて助かったと云われる!(ヤフー知恵袋より)
参考
参考: 渡来人たちの渡海ルート、7世紀後半の白村江の戦い後の百済遺民の受け入れ窓口
閑話休題:
須佐湾(すさわん)は萩市(旧須佐町)にある、日本海に面する小湾。国の名勝及び天然記念物に指定されており(昭和3年【1928年】)、北長門海岸国定公園を代表する景観の一つ。湾の内部は穏やかな入り江が見られる一方で、外部は勇壮な断崖が連続し、縞模様の断層で知られる須佐ホルンフェルスがある。
須佐湾の一帯は元々なだらかな平地面であったが、地表面の沈降によって窪地は入り江となり、丘陵、山地部分は溺れ谷となった。現在は変化に富んだ複雑な入り江が見られ、須佐湾の海岸線は16Kmにおよぶ。湾内には七つの入り江があり、海上には大小70以上の岩礁が見られ、風光明媚な自然の造形美が点在する。そのため「西の松島」などと呼ばれ、親しまれていた。一方、海上に浮かぶ雄島(天神島)、中島(弁天島)、鶴島、海苔石、兜・鎧岩、屏風岩、などは、日本海の荒波による激しい浸食を受けており、険峻な崖となっている。湾の外縁部も湾内部の穏やかな入り江とは対称的に険峻な断崖が見られ、中でも屏風岩は、高さ100m級の断崖で、実に雄々しい景観である(参考)。
笠松神社
益田家33代贈正四位親施(ちかのぶ)を祀っています。親施は毛利藩筆頭家老として幕末国事に奔走しましたが、禁門の変の責を負って家老福原越後、 同国司信濃とともに元治元年(1864)11月12日徳山惣持院で切腹し32歳で生涯を閉じました。
須佐では旧臣によって笠松神社を建立し、高正大神として祀りました。 境内の鳥居と灯籠に刻まれた元治3年、4年の刻銘は君主の悲憤を想い、 徳川慶喜に応ずるの意を想わせる「慶応」の年号を認めぬ反骨精神の現われで、 美祢郡美東町大田の金麗社に同様のものがあります(参考)。
須佐津考、津田常名