魏志倭人伝によると対馬(對馬国)、壱岐(一支国)、松浦(末盧国)、糸島(伊都国)、福岡市(奴国)のルートを往復した。当時は弥生時代と古墳時代の境界であり、邪馬台国大和説なら古墳時代、九州説なら弥生時代に区分される。
しかし、すでに弥生時代から対馬は沖ノ島を経由して本州方面に至る2の黄色のルートを持っていた!すなわち、沖ノ島以東との交流で話される言葉や埋葬される墓は響灘文化に属する形式であった。すなわち、卑弥呼の時代以前から交流は開始されており!また宗像大社近くに卑弥呼の生きた時代の遺跡がある!
当時は1の赤ルートによる既存の対外交流、すなわち物品の交易で十分あり、奴国など玄海灘文化圏主導の対外交流であった(参考)。しかし、4世紀後半からの朝鮮半島情勢の変化により、渡来人の受け入れに大和政権(旧邪馬台国)が積極的に乗り出して2の黄色ルートが活用されて行ったことが伺える。対馬の主な産業として大和政権に協力したと考えられる。
参考
① 原の辻遺跡は環濠集落のみならず、その外側にも広がりを見せる。集落の北西付近は、弥生時代には川が通っていた場所であり、そこからは船着場の遺構や水田、道路の跡などが出土している。また周囲には墓地も点々と存在しており、特に集落東側の石田大原地区からは、22基の甕棺墓(かめかんぼ)が発見された。甕棺墓は甕に遺体を入れ埋葬した墓のことで、これは弥生時代前期から中期にかけて、北九州で多く見られる埋葬方法である。甕棺内部やその周囲からは、鏡の破片、銅剣、ガラス玉や管玉など、権威の象徴と言える品々が発見されており、それ故ここは首長の墓地であると考えられている。
また中国製の貨幣、鏡や銅剣、鉄製品やガラス製品など、大陸の品々が弥生時代の遺跡としては他に類を見ないほど大量に出土しているのも特徴的だ。同時に、九州北部や瀬戸内の土器も出土していることから、これより一支国は、大陸の物資が集散する流通の拠点であったと考えることができる(参考)。