沖ノ島周辺も響灘文化圏の範囲であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

沖ノ島海域に明治中期あたりまで山口県の漁師も出漁していた。

{B10A1137-789B-4F2F-9A25-82B0255D087A:01}
帆船時代の特牛港

対馬にも出漁していたので当然のことではあるし、山口県の北浦海岸にも宗像海人が出漁しており、響灘は彼らの交流圏であった。


参考

① 沖ノ島周辺海域の漁業権

{DED0093F-7373-4463-A0B9-341C4B7E54BB:01}
{7851997F-D54A-4F96-B332-B29ADE3AD612:01}
{BE2F57C6-6448-4C9A-80B6-D0C9501137EA:01}


② 北浦沿岸の安岡浦と吉母(下関市)

吉母の南にある安岡浦の記述であるが、安岡浦からは遠く対馬~韓国沿岸まで出漁していた。250年前の安岡浦保有船の記録によると、漁船62艘、いさば船(対馬や松浦の海産物を大阪まで運ぶ商船)8艘となっている。同じく150年前の記録には、三反船2艘、漁船88艘、磯小船50艘とある。これらの船は勿論エンジンなど無く、改良された帆と航海技術を持っていたが、基本的には神功皇后時代と同じく海流と風の力の知識によるものであろう。

江戸時代後期の吉母の漁師についての記述を紹介する。吉母漁業の起源は北浦で最も古く、且つ進取の気運が漲(みなぎ)っていた嘉永年間頃より4トンから5トンの4・5人乗りの帆船で朝鮮の釜山沿岸で鯛の流し一本釣り漁を行っていたが、食糧や水の補給は言葉が通じない為困難を極め、暫々紛争を起こし決死の覚悟で上陸を敢行していた。この勇猛巧みな開拓魂を以て操業した吉母の漁師は朝鮮流れ五人乗りと称し「北浦倭寇」 と呼ばれて内外にその勇名を轟かせていた。吉母の漁師は朝鮮南部まで月2回操業に行き、船足7ノット以上だったという。※ 「船足7ノット以上」 は西風に乗る帰りか。吉母では鯛の一本釣りが盛んだった(参考)。


③ 対馬沿岸にも長州の漁師が出漁していた。


④ 宗像海人も響灘沿岸から山陰沿岸に進出していた(参考)。


⑤ 対馬の方言は本州に近く、弥生時代には響灘文化に属していた。