宗像あたりの人々は弥生時代初期から山口県の北浦海岸側の人々と同一の文化を持つ同族だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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宗像あたりから山陰地方にわたって弥生時代初期から中期まで、すでに初期秦王国(イツツヒコ王国)の前駆的な国の存在を指摘していた。すなわち、宗像地方より西側の北九州の渡来系弥生文化圏とは異なった山陰側の渡来系弥生人(土井ヶ浜遺跡出土)の一族が存在した。

沿岸には安曇海人族、宗像海人族などの海人族が進出して行く(参考)が、仲良く同居した。本格的な渡来人秦氏が山陰に渡来した時も安曇海人族、宗像海人族の渡海援助があったと当然、納得する。

戦国時代、宗像大宮司以下、宗像神郡は長州と運命を共にした(参考)。さらに、幕末まで長門の曹洞宗寺院の本・末寺のネットワークは宗像海人族の移住先である響灘・玄海灘を越えて北九州・壱岐・対馬・五島列島・大村湾などに広がった(参考)。


参考

世界の多くの民族は、独自に発展した音楽「民族音楽」を持っています。それは、神や支配者へ捧げるために、また、日々の労働を癒やすために歌い奏でられ、特有の楽器も生み出されました。

ウクライナでは約2万年前の骨製打楽器が、ロシアでは約1万5千年前の角製フルートが出土するなど、音楽は人類の根源的な活動といえそうです。

弥生時代の楽器

日本でも、打楽器などは早くから存在したと思われますが、現在のところ旧石器時代にさかのぼる例はありません。

縄文時代前期(約6000年前)ごろから、東日本では石笛や土笛、琴などが順次出現し、西日本に先行して音の文化が栄えていました。やがて、弥生時代になると稲作文化の伝来をはじめ、中国大陸や朝鮮半島から多くの文化が伝えられる中、西日本地域にもこれまでの縄文時代とは異なる音の文化が伝えられます。

土笛の謎

その一つが「土笛」です。弥生時代の土笛は、陶塤(とうけん)とも呼ばれる焼物の笛で、起源は中国。河姆渡文化晩期(かぼとぶんかばんき・約6500年前)の遺跡などで出現しています。

日本では、1966(昭和41)年に山口県下関市の綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡で初めて発見され、宗像では光岡長尾遺跡の環濠(かんごう)に囲まれた貯蔵穴(地下式の穴倉)から完全な形で出土しました。

形は卵形。高さ9.8センチ、最大径8.0センチで上面には直径2.2センチから2.7センチのほぼ円形の吹き口があり、指穴は前面に4個開けられています。口を寄せて息を吹き込むと「ホゥー」という低く物悲しい音を奏でます。

その他の出土地は、島根県松江市タテチョウ遺跡や京都府の日本海側にある扇谷(おおぎだに)遺跡など、不思議なことに大半が日本海沿岸部に集中しています。九州では、光岡長尾遺跡と北九州市の高槻遺跡の2カ所に例があるのみで、宗像より東側の沿岸地域でしか見つかっていないのはなぜでしょうか。

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注:光岡長尾遺跡から出土した土笛宗像と日本海沿岸地域

宗像地域は、弥生時代に栄えた強国で金印の出土で知られる奴国(なこく・福岡市や春日市付近)などが採用した甕棺(かめかん)というひつぎを用いた墓制を受け入れなかった地域であることにヒントが隠されています。どのようなひつぎで埋葬するかはその地域の大事な問題であり、よその墓制を受け入れるわけにはいかなかったと考えられます。一方、土笛は稲作に伴う宗教儀礼に用いられたと考える説から、共通の祭祀(さいし)をした一つの文化圏が想定されます。つまり、土笛の分布や墓のあり方を検討すると、どうやら宗像の人々は、墓に甕棺を作らず、土笛を使った共通の祭祀をする日本海沿岸地域の人々と関わりが深かったと考えられます。

中近世の例ですが、鐘崎海女が対馬海流に乗って盛んに山口県や島根県など日本海沿岸地域に行き来していたことからも、伝統的な交流圏であったことが十分推測されるのです。

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注:西日本で土笛が出土した遺跡の分布図

土笛を作ってみませんか

海の道むなかた館には、土笛づくりの体験学習メニューがあります。オーブン粘土を使って簡単に作ることができます。館では、形づくりまでをサポート。その後、自宅へ持ち帰りオーブンを使って焼き上げれば完成です。また、特別展示室では土笛を展示していますので、ぜひ実物を見てください。(海の道むなかた館、文化財職員・白木英敏)


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福岡平野(吉野ヶ里タイプ)の渡来系弥生人と土井ヶ浜タイプの渡来系弥生人は異なる形質の頭蓋骨を有する別種であった(参考)。


弥生時代後期あたりからの渡来人(秦氏)は人口の少ない山陰地方に入植した、牛馬を持参して土木工事が容易な為、山地を開墾して水田、溜池を造成できたのであろう!








響灘文化圏として扱った方が理解しやすい。


感想

幕末まであった曹洞宗大寧寺の本末寺ネットワークは宗像、壱岐・対馬、五島列島、大村湾に及ぶが、吉野ヶ里弥生人の末裔の地域を取り巻いているのでは?と勘ぐられる!下関市の北浦海岸と長崎県の東彼杵郡に、川棚と小串の地名がある、北浦海岸の福江に対し、五島列島に福江島があるのは考えすぎか?


追加 宗像地方の弥生時代

「福岡平野における甕棺墓の盛行に対し、この地方は皆無といっていいほどである。冨地原梅木遺跡で中期棺が一基発見されているほかは、久原遺跡や吉留京田遺跡の小児甕棺墓若干くらいのものである。甕棺墓にかわって、土壙墓が盛行となる」と書かれています。福岡地方の甕棺を利用した人たちとことなる人たちが遅れて住み始めたと思われます。

今川遺跡 紀元前160年ころ。

今川遺跡---津屋崎町宮司の海岸砂丘上にある弥生時代前期初頭の遺跡。断面V 字形の径60メートルの環溝に、住居跡、貯蔵穴がある。住居跡は環溝より古い。

韓国の松菊里などでみられる朝鮮無紋土器文化の住居跡に類似する。鉄鏃、銅鏃、銅ノミ。磨製石鏃、石斧、石錘、打製石鏃。黒曜石片、勾玉、管玉、夜臼式土器、板付Ⅰ式土器片など出土。

光岡長尾遺跡--V 字溝を持つ。標高30mの丘陵上にある。径42~46m。溝の深さは3m。溝中には弥生前期末~中期初頭の土器、石器が多量に堆積。陶塤(とうけん・土製の笛)出土。陶塤は全国の七遺跡から出土。

釣川遺跡---弥生時代から古墳期までの遺跡。
久原遺跡---33基の土壙墓発掘。

以上がデーターです。最も、注目されるのは、

①今川遺跡と光岡長尾遺跡にみられる、断面がV 字形の環溝を持っていることです。
②土笛は山口県綾羅木遺跡出土例が初見で、その後日本海側の弥生遺跡を中心に10数箇所、58個あまりが出土しています。島根県では松江市西川津町のタテチョウ遺跡出土の完形品が初見であるが、その後の調査でタテチョウ、西川津両遺跡合わせて38点が出土し、全国出土数の約7割を占めます。土笛を出土する遺跡が弥生時代前期に限られています。タテチョウ遺跡では銅鐸の石製の舌が、1997年(平成9)西川津遺跡では銅鐸が発見されています。

綾羅木郷遺跡は、竜王山の東麓を源とする綾羅木川の堆積作用によって形成された綾羅木平野の北側、鬼ヶ城山地から延びる洪積台地の西端部に立地する。今川遺跡と同様に、環濠を有します。竜王山は岡山県だけで11あります(抜粋)。