東鯷国(邪馬臺国のルーツ)沿岸はカタクチイワシの漁場 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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東鯷人(漢書に記載)が大好きな鯷(カタクチイワシ)の漁場は響灘、玄海灘、黄海あたりでした。現代でも、農家は漁師さんが取ってくる魚を毎日、毎晩食べています。

だから、漁師さん(安曇系、住吉系、宗像系)とは一身同体の運命共同体でした(参考)!

カタクチイワシの食べ方ですが、現代の知識では焼いたり煮たりする他、イリコにして出汁にしたり、すり身にして蒲鉾にする。

古代にはこのイリコ(煮干し)が重要で、乾燥させて年貢としてヤマト朝廷に納めた!また、大量の乾燥カタクチイワシを農家に売って水田の肥料にした!最近(戦後)まで、北海道の大量のニシンを購入して田に肥料としてまいていた!

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著者の住む農業地域はまとまって下関市一宮町の長門一宮、住吉神社の氏子であり、海の神様から五穀豊饒の御幣とお札を頂いている(参考)。

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なぜ海人族安曇氏が東シナ海に北上し、山東半島から朝鮮半島西岸を回って、海人族宗像氏が九州西岸を北上して、志賀島から宗像に定着したか?がよく理解出来る(参考)。しかし、地元の奴国などの稲作呉系弥生人とは仲良くしなかったようだ!九州の稲作呉系弥生人は鶏肉を食べたり、自分で川魚を食べたり自給自足を目指したために海人族とのつながりが薄かった(参考)。ただ塩だけは海岸を支配する海人族に頼る必要があり、倭国大乱の敗因となった(参考)。


お魚をもっぱら食する稲作弥生人、すなわち斉系弥生人は山東半島の付け根の臨淄に居たが、ここ山東半島で海人族安曇氏と知り合って、日本列島の本州西岸に運んだことが良く理解できる(参考)。


イツツヒコ王国(初期秦王国)の領土に因幡あたりを追加したのが東鯷の二十余国にあたるか!