645年に蘇我入鹿(安曇氏の末裔)が殺されるクーデターがあり、646年の大化改新があり、以降の政策が大幅に変更があった(参考)。また、沖ノ島の祭祀も宗像氏に任され、宗像の地は神郡として独立した。さらに、後の天武天皇(大海人皇子)は宗像君徳前の娘の尼子郎女との間に第1子である高市皇子を生んだ。
ところで、塩土老翁は住吉大神、安曇磯良、武内宿禰などと同一視され、また別名が事勝国勝長狭神とあり(参考)、彼が志賀島の安曇氏の長老で、邇邇芸命、山幸彦、そして神武らが九州を平定する時、志賀島の勝間を本拠地とする安曇氏を使って道案内させたと考えることができる。また、塩土の「塩」が製塩を意味し(参考)、安曇族が代々朝廷料理人の内膳司という要職にあったのは、海産物の調達や製塩などに有利だったからである(参考)。
この辺りに、海人族にも利権構造の変化があったことが理解できる。すなわち、宗像氏は鐘崎を根拠地とする海人で織幡神社の氏子であり、潜水漁をもっぱらとしていた(参考)。元々の沖ノ島祭祀は安曇氏が担っていたのが、件のクーデターで棚ボタ式に宗像氏のものになったと推測される。
相島から宮地嶽神社(祭神は阿部函相)は安曇氏のものであったのに、7世紀後半の宗像君徳前が宮地嶽神社境内の6世紀の巨大古墳に葬られていることの不思議さが腑に落ちる。
参考
① 元々、日本の地主は安曇氏であった(参考)
② 塩と漁業と農業の関係(参考)
③ 安曇氏と秦氏系渡来人の氏神の宮地嶽神社(参考)
④ 宗像氏の氏神の織幡神社(参考)
⑤ 宮地嶽神社(参考)
江戸時代の『筑前国風土記拾遺』には、「宮地嶽大明神社は村中の小高い山の上にあり、石の階段、数十段を登る。昔は、宮地嶽の山上にあった。今、その跡を古宮という。そこに清水があって、禊の池という。昔、社があった頃には使っていたという。」という内容が書かれている。
また、『宗像宮社記』によると、宮地嶽明神内の二社は宗像三女神と勝村大明神だという。神功皇后が宮地嶽の山上に祀ったのは宗像三女神であり、勝村大明神は神功皇后のことで、新羅から勝って帰ったので勝村大明神と呼んだという。
更に次のような異説がある。中殿に阿部函相(宮地嶽大明神)、左に藤高麿(勝村大明神)、右に藤助麿(勝頼大明神)三座であるという。この三神は神功皇后が韓国を討った時に功績があった神だという。
どうやら、宗像大社関係者は宮地嶽神社の祭神を神功皇后と宗像三女神にし、宮地嶽神社関係者は宗像三女神とは関係ないと言っているようだ。2社の言い分について、宮地嶽神社の言い分が正しいと見る。宮地嶽神社が本来の祭祀者と思われる。阿部とは安曇の別名です。
津屋崎の南は綿津見神を奉祭する海人族、阿曇氏の地。筑前では阿部氏と阿曇氏が重なる。「阿部」は阿曇氏の部曲、「阿曇部」とも。阿曇氏は応神天皇の頃、海人の宗に任じられた。律令制の下では内膳司の長官を務める。この官は二人で、阿曇氏と高橋氏が任ぜられた。高橋氏は阿部氏の一族で、阿部は「饗(あへ)」から来ているともいわれる(参考コピー)。
大化改新(646年)から宗像氏が祭祀を引き受け、宗像大社の三女神は日本書紀(720年)の中で作られた神である。
⑥ 宮地嶽神社が筑紫の日向であった(参考)
⑦ 宗像三女神は天照大神と同一か(参考)!
⑧ 宮地嶽神社を参拝
⑨-1 対馬は海人族安曇氏の本拠地で中国大陸、朝鮮半島、北九州、本州間を交易していた(参考)。
⑨-2 海人族宗像氏が海北道中の中継地である対馬の漁業権を持つのは1300年ころと新しい(参考)。
もともと潜水技術に優れていた鐘崎の海女は、今から700年ほど前、対馬の守護代宗氏が鐘が崎を領有していた縁から対馬で漁業権を得て、アワビを捕り干しアワビにして、フカひれや干しナマコとともに俵物として中国へ輸出し換金した。家船で朝鮮半島に出かけた海女家族は、あまり魚を食べる習慣がなかった朝鮮の人々に漁獲法や料理法を教えたという。男はクジラを捕り、海女家族はやがて厳原近くの曲に枝村を営むようになる。壱岐の小崎、大浦(山口)、輪島などもそうした季節労働からやがて枝村ができたところである。
10 蘇我氏、安曇氏の再評価
11 伊勢神宮は神島を持ち、沖ノ島と同じ祭祀を行っている(参考)。しかし天照大神の一神教である。
12 ニニギノミコトが沖ノ島を祭祀した(参考)
13 やっぱり、沖ノ島祭祀は海人族安曇氏が執り行っており、祭神は天照大神だった。これが、伊勢神宮に移された(参考)
14 宗像市の大島の山頂の奥宮は天照大神を祀り、周りの漁港は海人族安曇氏であった。彼らの氏神は武内宿禰、猿田彦、恵比寿神であった(参考)。
16 乙巳の変以降の蘇我氏はトップに不幸があり、本土の土地を盗られたが、処遇に不満は無かった(参考)
17 蘇我氏、海人族安曇氏の本拠地は宮地嶽神社(参考)