天照大御神と卑弥呼 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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四ヶ所の高天原を足がかりとした本格的な渡来以前、すなわち5世紀以前の初期の秦王国は北九州から出雲あたりにあった。特に、神武東征の出発点にあたる筑紫の日向に相当する宮地嶽神社の高天原も初期秦王国の範囲内に存在していた。ここには太陽信仰が確認され、また天の岩戸の様な岩礁(鼻栗瀬)も実際に存在した。

さらに、天照大御神の天の岩戸隠れの伝承に関連した皆既日食(畿内では見えず、出雲を除く3ヶ所の高天原のみの現象)があった。この皆既日食の時期は邪馬台国の卑弥呼が亡くなられた時期に一致するとか!

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天照大御神

本ブログでは、神武天皇、天照大御神、卑弥呼、邪馬台国の実在性については研究の範囲を超えるので言及しないが、畿内と高天原の間の人的交流は指摘出来る。例えば、卑弥呼、邪馬台国は畿内の大和に在り、天照大御神を崇める海人族安曇氏(秦氏)は、例えば北九州の宮地嶽神社の高天原から大和に移住したとする(神武東征)。3世紀の偶然に同じ時期に起きた二つのイベントの伝承(皆既日食・天の岩戸隠れ、卑弥呼の死)を5世紀前後の神功皇后と応神天皇の活躍も絡めて、8世紀に一つにまとめた記紀の物語にしたと考えた方が現実との矛盾が無く、合理的である。

魏志倭人伝について邪馬台国大和説を採用しても、訪問者が北九州の範囲に滞在して、邪馬台国の話しは伝聞(東方向を南と騙された)とすると、入れ墨の入った海人(鐘崎の海人!)の記述など弥生時代的な見聞の記述、邪馬台国付近の国の記述が大雑把、そして初期古墳時代の都の様子や卑弥呼の墓の詳細がない事などの矛盾が理解できる。さらに卑弥呼の死亡、台与の擁立についても日食と関連付けた物語を魏の訪問者が伝聞することは可能である。すなわち、邪馬台国は大和にあって卑弥呼と天照大御神は同一では無い(注: 下記に示すが、同一であることが判明した)。

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卑弥呼

卑弥呼は神道の巫女、天照大御神に同一視されると言うか、モデルにされる説が主流であり、海人族安曇氏(秦氏)又は、早くから渡来した秦氏の巫女であろう。ヤマトに住んだ卑弥呼が、西の高天原に住むとされる天照大御神にも見なされた。天の岩戸隠れ(皆既日食)のせいで亡くなった卑弥呼のことも、高天原とヤマトの間にたとえ瀬戸内海が隔てても、関連していたとしても不思議では無い。後を継ぐ台与も同じであろう。

西暦2015年1月26日追加

一歩進んで、卑弥呼台与も北九州、例えば宗像大社を含む高天原に住まわれ、国家としての邪馬台国は畿内のヤマトにあると分離すれば、天照大神と豊受大神に対応し、今までの疑問が全てが解決する。


参考







宮地嶽神社の天照大御神と神功皇后は時代は違うが、同一人物か!

5世紀以降の秦氏の渡来ルート、4ヶ所あった高天原

皆既日食に基づく、天照大御神と卑弥呼・同一・九州説
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり、天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する、との見解がある。卑弥呼の死の前後と見られる紀元247年に北九州で、皆既または皆既に近い日食があったことは、注目に値する。(注: 宮地嶽神社から以北が皆既日食)

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天岩屋戸事件後、激変する 彼女の行動が意味すること『古事記』神話などによれば、天照大御神が活躍していたのは、おもに九州となる。したがって、天照大御神が活躍していた場所、高天原は、九州方面をさすことになる。古代を照らす光は、やはり、天照大御神からくるようである。ところで、『魏志倭人伝』や、中国の史書『北史』によれば、卑弥呼の没年は247年か、248年のことである。卑弥呼が没した前後の、247年3月24日に、中国で日食のあったことが、『三国志』と『晋書』に記されている。 この西暦247年3月24日の日食は、日本では、北九州において、皆既または皆既に近い日食であった。

一方奈良県では、皆既または皆既に近い日食であった可能性は、ほぼない。

天照大御神が、須佐男之命の乱暴に怒って、天岩屋戸にこもったという神話は、太陽の神とされていた天照大御神(卑弥呼)の死の前後に、深い日食があったので、古代人にとっては、衝撃が大きく、それが、神話化したものであろうとする説がある。『万葉集』に、人の死を、「岩戸に隠れる」と表現している歌がある。(原著)

黒い太陽の天の岩戸隠れ
ある研究では247年3月24日に皆既日食は最大日食時刻18:25 日没時刻18:35、すなわち日没前であった。春分の日の直後、皆既日食によって太陽本体は真っ黒になり、黒い太陽の周りにコロナが浮き出て見え、その状態のまま真西の水平線に没してゆくのです。夕焼けとも重なって、まるで太陽が燃え尽きて沈んでしまったように見えるのです(参考)。この日暮れの皆既日食による水平線上の光景は響灘に面した北浦海岸(梅ケ峠の高天原)付近と、玄海灘に面した宮地浜(宮地嶽神社の高天原)付近の二箇所に限られる。前者では蓋井島を見る福江、安岡の海岸の地点によって、また後者では相の島の鼻栗瀬(めがね岩)を見る宮地浜の地点によっては、天の岩戸に隠れるブラックホールに見えたであろう。さらに八幡の高天原については、遠賀川から西方の地平線に沈むブラックホールが想像もつかない光景を生んだであろう。

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北浦海岸の日の入り

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宮地浜から見た鼻栗瀬と日暮れ

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遠賀川から西方の春の夕暮れ


魏志倭人伝について、邪馬台国九州説の人の解説

追加

卑弥呼の死の前後の日食シミュレーション研究(参考)で、響灘沿岸は前後二回とも見ることができた。

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247年3月24日日没前の響灘西方に皆既日食(天の岩戸隠れ)、春分の日の後

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248年9月24日朝の響灘沿岸で東方に部分日食(天の岩戸開き)、秋分の日の後


照大御神と弟、素戔嗚尊の誓約で宗像三女神が生まれたが、素戔嗚尊の子が武内宿禰(海人族安曇氏の祖・安曇磯良=事代主命=五十猛命)であり、海人族住吉氏は海人族安曇氏の支族であったこと。武内宿禰と神功皇后は同族で秦氏であることから、記紀の天照大御神の神話は西は北九州から東は出雲付近の初期秦王国(4ヶ所の高天原を含む)が舞台と考えて差し支え無い。


西暦2015年1月26日追加

宗像大社、沖ノ島は高天原だった!だから、神職以外の入島を禁じられ、年に一度の参拝も女人禁制で、見聞きしたことを秘密とするお言わずさまのしきたりがあった(参考)。


魏志倭人伝で、魏の使節は東を南と認識していた、やはり邪馬台国は大和にあった